感性についての考察


以前、黒澤明監督について
爆笑問題の太田光さんが
すごく良いことを言ってて感動したんです。

黒澤さん初のカラー作品で
あまり興行的にはヒットしなかった
”どですかでん”という映画についての
話になった時に

「実はあれはすごい良い映画なんですよ。
確かに今までの黒澤作品とは一味違う。
でもね、ファンと黒澤さんの間には
今までの信頼関係があるはずなんだ。
だから黒澤さんが新しい所へ行こうとしているなら
本当のファンはそこについて行くべきなんだ。
そのためには自分の感性を磨かなければいけない」
ということを、おっしゃったんですね。

不意に頭をパンチされた気分でした。
そうだ、そうだ、そうだよね。
これはすべてのことにあてはまることだなぁ…って。

受身の人間は
発信してる人間に
好き勝手に批評する。
でも、自分が本当にその人間を
そしてその人間の発信してるものが
好きなのであれば
その人間が、新しい境地に行った時こそ
理解しようとするべきではないのであろうか。
受け取る側としては
理解できないのであれば
自分の感性の無さを
恥じてもいいのではないか?
すべてが発信してる者の責任なのか?
そうではないと思う。

”どですかでん”は黒澤監督にとっても
らしくない作品で
転機的なものだと思うけど
原作の山本周五郎にとっても
彼らしくない作品だと私は思う。
あれだけ熱い、読後感はいつもスッキリさせてくれる作家が
この作品ではタダひたすら冷たい傍観者のように
淡々と主人公を書き綴っているのだ。
でもそれには彼なりの意図があり
そこにはやはり彼らしい温かさがあるんだけど…

黒澤さんは、この作品以前から
周五郎の原作をよく映画化している。
太田さんの言葉を借りるならば
黒澤さんは周五郎の新しい境地を
ちゃんと理解し
数ある作品の中から
あえて”どですかでん”をチョイスして
彼の新しい境地へついて行ったように思った。

中学の時は、黒澤映画を観ても
良さが分からなかった。
でも今は分かる。
賛否両論だった”どですかでん”の良さも
分かることができた。
これからも芸術全般において
自分に理解できないものも沢山あると思う。
嗜好とかもあるだろうし…
でも、自分の引き出しには無いものでも
ちゃんと理解できる感性を持った人間になりたい。
今よりも一層に…

何か自分に理解できない作品や人に出会った時
その作品をけなすばかりではなく
自分の感性の無さの問題ではないのか?
そう問いかけてみよう。

太田さんのこの言葉は、以来
私の感受性に更なる奥行きを持たせてくれた。


クソみたいなニセモノは別ですよ。
そんなのは初めから論外っす(ཀ д ཀ)


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