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短編幻想小説『ねじれの報酬』4


 おかしなニオイがする。善いニオイなのか悪いニオイなのか、それさえも判断できない奇妙なニオイだ。雨降り前後の虫たちが蠢く精気に満ちた土のようでもあり、腐る直前の甘美なバラの死臭のようでもある。とにかく、正体が解らないものは要注意。じいさんは寝ている。時々「うー、あー」と赤ん坊みたいな意味のないうめき声を立てる。入院してからだから、骨折した足が痛むのだろうか。大体この人は無茶をする。自分の年齢に自覚がない。はしゃぐ。そして屋根から落ちて両足骨折。大嫌いな病院に無理やり運ばれ、ついでに検査してもらい、当然ながら内臓に幾つかの疾患が発見される。だがどれも年齢から考えれば当然だ。逆に元気すぎるらしい。やれやれ、人騒がせな人だ。だがまあ、私も一緒に入院させてもらえて良かった。最近じいさんの身辺で、妙な空気の動きを感じる。だが特にこれといって不審な点があるわけではない。まあ、用心するに越したことはないだろう。

 ジャック・ロンドンはこう考えると、病室に置かれた自分の小屋から忍び足で出てきた。真夜中を過ぎており、扉向こうの廊下も隣の部屋も静まっている。建物全体が眠りにつき、昨日の記憶を整理しているのだろうか。じいさんはお気楽に寝息を立てている。ジャックはじいさんのベッドの脇まで行くと、彼専用のクッションの上に腰をおろした。今晩もここで眠ろう。ジャックが両のまぶたを閉じると、いつの間にか異臭は消え去っていた。

 「なんだ、またここで寝てたのか。おまえは本当に寂しがりじゃな」とジャックの気配を感じたじいさんが、あきれ果てた声でがなった。ほんとに気楽な人だな、と犬はじいさんをちらりと見上げて思ったが、何も言わなかった。「言わぬが花」とは誰の言葉だったか……。

 じいさんはスタッフが運んできた紅茶ポットの蓋をはずして少し鼻を近づけると、「アールグレイ。混ぜ物なし」と呟いた。そしてまた蓋を元に戻した。合格サインだ。赤ら顔で小太りのスタッフ男性は、大仰に片膝を曲げて感謝の意を表し、ジャックにウインクをした。ジャックはこの小太りに好意を抱いていたので(しばしば減塩クッキーを分けてくれるからだけではない)、毎朝の儀式が無事終了し安堵した。じいさんは朝食を何よりも楽しみにしているため、気に入らないものが少しでもあると一日中機嫌が悪くなるからだ。しかもじいさんの胃は異常に(お医者さんのお墨付き)丈夫なため、時間も年齢も体調も思想も関係なく、どんな食材でも受けつける。じいさん曰く、「朝食は死からのカンフル剤」なのである。

 じいさんは上質バター入りパンケーキ2枚とカリッカリに焼いたベーコン3枚、チーズたっぷりのシーザーサラダを制覇し、大好きなチョコチップ・アイスクリームに手をつけ始めた。小太りは隣の病室に行ったまま、まだ戻ってこない。隣は5歳の少年で、時々こちらの部屋に顔を覗かせる。じいさんは天性の気分屋のため、大概はジャック・ロンドンがそいつの相手をしてやるのだが。

 その少年は「ルシアス」と呼ばれ、巻き毛の金髪・碧眼の持ち主である。いわゆる女たちから「まあ、天使ちゃんみたいねー」と言われるタイプだ。だがジャックは天使というものを直接は知らないが、象徴的な意味での「天使」とは少し違うのではないかと思う。少なくとも、天使は人の食い物を、断りなしに食べはしないだろう。どうせなら「ルチフェル」に改名したほうが、本人もしっくりくるのではないだろうか。もちろん人は人を判断する際、どうしても己の絶対的偏見からは逃れられない。なぜなら人は皆、これまでの限定された環境や知識によって形成された一個人なのだから。だが保護も権利も体制も理想も信念も不確かなこの世界では、狼も羊も結局は同質のニオイを放っている。だからこそ、人は他者の姿にある種の指標を見出さなくてはならないだろう。この場合の指標とは、他者への判断材料ではない。己の社会での立ち位置を見出すための指標である。5歳といえば、犬なら立派な大人だ。この少年ももう少し己の内面を見つめ、立ち位置を修正する必要があるのではないだろうか。

 じいさんがチョコチップ・アイスクリームを食べ終わりかけた時、絶妙の間で小太りが帰ってきた。彼はじいさんの見事な食べっぷりを黙視し、嬉しそうに手際よく食器を片づけていく。鉄則その10ーーそれらアンティークの陶磁器はじいさんが入院に際し持参したもののため、「特別丁寧に扱うこと」。そして小太りさんはじいさんの身支度を手伝い、彼をピカピカの車椅子に乗せる。「丁重に、でも押しつけがましくなく」。じいさんに帽子を手渡し、車椅子をソフトに押しだす。忠犬ジャックもぴったりとついてくる。さあ、これからじいさんの日課である、病院外のカフェまで遠出するのだ。

 中庭を通る間、小太りさんはじいさんにもジャックにも話し掛けない。彼らが外気の変化や草花の香りを読み取ろうとしているのを、知っているからだ。決して奴隷ではなく、決して保護者ではなく、主従関係も雇用関係もなく、慣れ合いも卑屈さもなく、ソラさん(小太りさんの本名)はじいさんの食事や身の回りの世話をする。じいさんだけではなく、幾人かを同時に受け持っているのだが、誰に対しても同じ信念を抱いて接している。なぜなら彼はプロフェッショナルだから。

 ソラさんがカフェの戸外のテーブルまで車椅子を押し終わると、「おい、小太り」とじいさんがソラさんに声を掛ける。「今日のチョコチップ・アイスクリームじゃがな、あれはチョコチップじゃないな」

「さすがですね。確かに本物のチョコチップじゃないです。カルシウムの一種なんです」
「それとパンケーキにかかってたシロップじゃが、あれも似非だわい」
「ええ、そうです。あれは鉄分補給にいいんですよ」「ベーコンは?あれは何補給の合成品じゃ。ま、合成品の割にはうまかったがな」

 ソラさんは「ははは」と愛想笑いをすると、店員に給仕開始の合図を送り、「ではまたいつもの時間にお迎えにきますので」とじいさんに言った。じいさんは「サラダのチーズは試作品か?」とだけ彼に応えた。これで明日からの食事にあのチーズが出されることはないだろう、という確信を抱いて。

 ソラさんが立ち去って数分後、じいさんは大きな白いボウルに入った温かい抹茶カフェ・オレを抱え込んでいた。と突然、ジャック・ロンドンが鼻をクンクンと鳴らし始めた。様子が明らかにおかしい。「どうした、ジャック」
 じいさんの問い掛けにも反応せず、ジャックは低く唸り声を出しながら、じいさんの周囲をぐるぐると歩き出した。こんなことはこの5年間で初めてだ。じいさんは自分の全身の肌が粟立つのを感じ、目に見えぬ深い深い森の触手が、彼らの足元を幾重にも重なり這う幻覚に襲われた。じいさんの喉はカラカラに乾き、声を絞り出そうにも一滴も出てこない。ジャック、と強く念じる以外、じいさんになす術はなかった。

「ここ、よろしいでしょうか」という若い女の声がし、じいさんは意識を取り戻した。どのくらいの時間、気を失っていたのだろうか。数秒か、数分か、全く見当がつかない。だが両手に抱えたボウルは、まだ温かさを保っている。

「素晴らしい犬。とても賢く、用心深い」と、女の声が再度聞こえた。全く抑揚のない、硬く冷たく艶かしい金剛石を想起させる声だ。じいさんはジャックが緊張を解いていないことを感じ、彼の背中を撫ぜつけた。分かっている、という合図である。女は、じいさんの向かい側の椅子に座り、じいさんをじっと見つめている。
「私、あなたのお孫さんとは顔見知りなんですの。ビジネスとして、という意味ですが」女はじいさんの返答がないのを確認すると、話を続けた。
「先日、おじい様がご入院なさっているとお聞きしました。そこで私の雇い主が、ぜひこれをお渡ししてこいと申しまして、秘書の私が代理でお持ち致しました」

 女は少し間を置くと、ちりめんに包まれたなにか硬いものをじいさんの掌に載せた。と同時に、バチンという馬鹿でかい音が反響した。
「私はこれで失礼致します。ですからその包みは後でお開け下さいませ」
 女は席を立つと、そのまま立ち去ろうとした。そのとき、じいさんは初めて女に声を発した。
「お嬢さん、お名前は?」
「便宜上レディ・バウンティフルと呼ばれております」

 その答えを最後に、女は消えていった。じいさんの掌には、小さな包みだけが残されていた。

 カフェの店員が、女が来る前にじいさんが注文したアップルパイを運んできた。じいさんはその店員に、先程の女の姿を見たか訊こうとしたが、思い直して黙っていた。店員が去った後、じいさんはアップルパイをフォークで口いっぱいに頬ばりながら、ジャック・ロンドンの頭にもう一方の手を載せ「あの女、気配がなかったな」とモグついた。ジャックはもちろんその言葉を理解したが、何も言わず、ただ女が去った方向に鼻をクンクンさせているだけだった。

《続く》

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