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1人には慣れたつもりでいた

軽井沢に来ている。10/22(火)が祝日ということで、「とはいえ月曜出勤の人も多いだろう(=土日で1泊よりは空いているだろう)」と見込み、月曜を休みにして日曜から1泊でやって来た。

軽井沢には毎夏のように来ていた時期がある。と言っても自慢できるようなものではなく、大学で所属していたテニスサークルの夏合宿である。従って、約1週間の期間中は合宿所であるオンボロの山荘とテニスコートの往復だけで、爽やかで華やかな軽井沢を満喫したことはなかった。むしろ軽井沢と聞くと、永遠に終わらないんじゃないかと思えたあの集団生活や、アホみたいに缶チューハイを飲んでいた毎夜の宴会ばかりを思い出す。来るたびに「こんなことなら別に軽井沢でなくてもいいんじゃないか」と思っていた。辛うじて1度だけ最終日にアウトレットに行ったことはあったが、その時私はスーパーで買ったお寿司にあたり人生初の食中毒になっていた。散々であった。「海のない県でお寿司など食べようと思ってはいけない」という教訓を得た。

そんなしょうもない思い出と決別すべく、秋風薫る軽井沢に行ってみようと思い立ったのは夏の終わりごろだったろうか。紅葉も見られる頃だろう。新蕎麦も出ているかもしれない。そんな期待を胸にやって来た。

混んでいる

先日の呼子でもそうだったが、「私が思いつくようなことはみんな同じように考えついている」ということをありありと思い知らされた。混んでいるのである。天気も良いし、当たり前である。12時過ぎに軽井沢に差し掛かったが、もう目ぼしい食事処には列ができていた。だよね、という感じである。しかも、台風19号の影響で外出がままならなかった土日の翌週である。みんな遊びたいに決まっている。むしろこれだけの人出があれば経済が回って良いというものである。ランチ後、早めおやつに万平ホテルのアップルパイを食べようと目論んでいたが、「駐車場がいっぱいなんで時間をずらして来てください」とのことであった。16時台に再訪したところ、もうアップルパイ以外のスウィーツは売り切れていた。

家族連ればっかり

何より辛かったのは、どこもかしこもファミリーもしくはカップルという単位で溢れかえっていたことである。普段私は1人ランチでも1人旅でも全く人目を気にしない。むしろそんなもの気にしていたら、どこのお店にも入れなくなってしまう。旅先では行きたいお店で意地でも食事をするし、外勤時はリンガーハットだろうが丸源ラーメンだろうが時間とロケーションが合えば臆せず入っていく(だから痩せないのでは?という話は今は脇に置いてください)。そんな生活をもう8年も続けている。「1人ご飯できません」みたいな青い自意識からは、とうの昔に解脱している。そんな私が、久しぶりに「あれっ」と思ってしまった。なんか辛いのである。誰も私のことなど気にしていないのは分かっている。いや気にされていないはず。あれ、ちょっと変な目で見られている…?なんか、お店を出た後「あのひと1人だったね(笑)」みたいに言われてそうな空気を感じる…??

女1人で来ている人なんかどこにもいなかった。たまたまかもしれないが、男性の1人客さえ見かけなかった。そこにいるのは、ようやくお子さん連れで外食ができるようになった若家族(バッチリ同世代)や2人の老後を楽しみ始めたご夫婦、もしくは結婚前と思しきどこか初々しいカップル…そういう“幸せ”に溢れていた。満ち溢れていた。周りの眩しいまでの健全さと裏腹に、どんどん不健全になっていく心。久しぶりに落ち込んだ。なぜはるばる軽井沢まで来て落ち込まなくてはいけないのか。想定外であった。私は人々の幸せの輪を乱す闖入者だったのだろうか。唯一孤独を感じなかったのは、老いも若きも女ばっかり全員丸裸の温泉だけであった。

どうする、どうする私。

1人には慣れたつもりでいた。むしろ、独身に戻って以降は「もうずっと1人でいい」とさえ思い始めていた。だって何から何まで圧倒的に楽なんだもの。イライラすることのない生活。いない方がいいパートナーと旅をするくらいなら、本当に1人でいい。今日も混雑回避のため右往左往したが、こんな時に波長の合わない人が隣にいたら本当に災難である。考えただけで胃が痛くなってくる。何かトラブルが起こるたびにそう思ってしまう限り、今後私が誰かと生活を共にすることはないだろう。「誰かと一緒にいることで生まれる苦しみより、1人でいる寂しさの方がマシ」と感じる体になってしまっているのである。でも今日軽井沢で感じた孤独は結構キツかった。考えを改めるには至らなかったが、「ど、どうしよう」と思った。

33年を振り返ると、いろんな人のおかげで、なんとなく良いことも悪いことも大枠で言えば昔イメージしたような人生を送ってこられた気がする。しかし困ったことに、パートナーライフに関してはいま全くイメージが持てない。皆無である。不毛の大地が広がっている。ああしたいこうしたいという欲がなくなった。最近は男性にときめくこともない。むしろ「男なんて…」という思考が渦巻いている。年を重ねるごとに傷が治りにくくなり、跡に残りやすくなるのは心も体も同じことだった。でも孤独が人を追いやる先が決して心楽しいものではないことは、多くの文学作品が描いてきたことだ。

とりあえず、当面はファミリー層が多く集まりそうなところには足を運ばないことにする。荒療治的にそういうところだけを巡礼するほど精神的にタフではない。私の不毛の大地に、神のささやかなご加護があらんことを。

お読みいただきありがとうございました。今日が良い日でありますように。