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エッセイ|勝利をつかむ

何年か前のCMで、通勤途中の二人が、相手よりも先を行こうとして知らず知らずのうちに足を速め競いだすシーンがあった。ご記憶の方もいるのではないだろうか。偶然に行きあわせた二人が、あ・うんの呼吸ではじめた熱く静かなたたかいのことを。当時わたしは、通勤途中にいきなり競いだすという理屈がわからなくてトンチンカンなCMかと思っていた。

ところが、である。最近になって腑に落ちる出来事があった。
うちから最寄り駅までダッシュして、(もう少し…)というところで電車を逃してしまったときのことだ。

実はその数分前、マンションの1階へと降りていく途中でエレベーターに乗り込んできた他の居住者の方がいたのだが、先に駅のホームに着いて、わたしが乗れなかった電車に滑り込んだ。ドアが閉じたとき、

(やられた!)

と思った。
自分の足が遅くて乗れなかったのに、後からきた人に負けてしまったっ!と。

……あぁそうか、あの時のCMはこういう気分を表現していたんだと、それでようやく理解した。


人って、勝負したい生き物なのだろうか。
何のために、勝負するのだろう。

そして、

どうして勝ちたいと思うのだろう。

あらためて考えると、わからなくなってくる。

人よりも、より多く。
より速く、より高く、より遠くに。
より美しく。
そういうことを目指して競う。

でも、どうして、
多い、速い、高い、遠い、美しいということが、
「勝利」の尺度になるのだろうか。

それが、優れているということなのか?
そうなのだとしたら、

そう決めたのは、誰なのだ。


いまさらこんなことを疑問視するなんてトンチンカンだとも思うのだが、勝負について気になりだしたのには、一つにはオリンピックの影響がある。

最終セットまでもつれ込み、マッチポイントを幾度も取り合った末に勝敗が決する試合。続けざまに目にしていると疑問に思えてくる。
実力は拮抗している。どちらが勝ってもおかしくない状況だ。
それが…最後の一瞬で命運がわかれる。

もちろん選手たちは、その最後の1点をものにしたい。
運までをも、味方につけたい。
そのために不断の努力を重ねてきた。

だから、その決定的な1点を得られたら……勝利の女神を自分たちの方へ微笑ませることができたなら、嬉しくないはずがない。
ギリギリのところで勝てるのは、実力の証でもある。

それは、その通りなんだけど ―――

「勝った」側が画面に映し出される。選手たちの顔は輝いて、周囲は光に満ちている。
その一方で「負けた」側が映されると、レンズに暗いフィルターをかけてでもいるかのように、重く陰気な空気がその場を包んでいる。

わたしは思う。
その「勝ち」は、本当の勝ちなのか?
その「敗北」は、本当の負けなのか?
そんなことはまだわからないだろう、と。

「勝利」は人を酔わせるだけだが、
「敗北」には人を奮い立たせる力がある。
見ていろよ、という執念のエネルギー。それを与えてくれるのは、まちがいなく後者のほうだ。

***

さて、ここからが本題である。

あなたの日常にはいろんな人が現れる。あるいは、すでに現れているだろう。

讒言や、小手先のはかりごとで人をおとしめ、「勝利」を得る強欲者は、なにも平安貴族や、特殊な世界に限られた問題ではない。現代のありきたりな生活の中に、溢れかえっていることだってある。

でも、それほど恐れなくたっていいんだ。

自分の力を過信して、かりそめで張りぼての「勝利」に満足している者どもが、慢心の美酒に酔いしれ惰眠を貪っているそのあいだ、

そのときこそが、

本当の勝利の女神が、あなたに微笑んでいるときだと思え。

そして、そのあいだに人知れずひっそりと、(少しだけ急いで)自分だけの確かな力をつけていくんだ。

その先にあなただけに許された、本物の勝利が待っている。

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