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解決出来ない人間関係がストレスに



狭く浅く解決が容易である事はストレスを認知せず自然に処理している。

広く深く解決が困難である事はストレスを認知して苦しくなる。

知る事や感じて考える幅が広く深くなるほど、解決困難な事象が膨大に増えていき自虐的になっていく。


ストレスにならない人間関係

近所の話であれば、

・子供が自転車で突っ込んでガラスを割って逃げてしまい片付けを手伝った。

・猫が脱走した時に一緒に探すのを手伝って無事に見つかった。

・提供ベンチで休んでいた80代のお爺さんと世間話をしつつ、そのお爺さんが立ち去ろうとした時に足腰が弱っているからベンチから道路へのちょっとした段差も不安と話されたから手を差し出してつかまりますか?と話しサポートした。

・駅前でタクシー乗り場がどこかを別の人に聞いていたお爺さんがいて、聞かれた人が解らないと返答していたのが通りすがりに聞こえたから、歩調を合わせて案内した。

妻との生活でも、苦労せず話が通じ対話が円滑。


ストレスになる人間関係

・一緒に何かをやらなくてはいけない時に、能力や認知の範囲が大きく違う場合。
その中でも特に自助努力は低いのに他責傾向が強めだったり、中身が薄っぺらいのにイキっている傾向だったり、説明しても話が通じなさそうで面倒くさいと感じる人。
これは単純な知能の高低ではなく、例えば軽度や中度の知的障害者でも話せる人や不快に感じない人は多々いた。
思うに能力的には問題なくても、何か不遇があったり、自助努力が足らなくも思える人もいて、一般的な幸せ相応の経済力なり異性なりが獲得出来ていない人が心を護る為に強がる事で保とうとしているのだろうけど。
あからさまに解りやすい障害があれば当人も受け入れやすいかも知れないけど。

・上記に似ている事だけど、自分にも直接影響が出るのに自分には権限や決定権が無い場合。
例えば子供の時に機能不全家族の親に対してとか、社員の立場である時に上司に対してとか、何かの催しにお金や時間を掛けて参加した時とか。

・ひたすら延々と話を聞いて欲しいというのも、段々とキリが無く感じて止めた。当人からしたら許容してもらえる体験や人を欲していて、母性愛的なものが不足しているのだろうなとは思うけれども。

・政治社会や世界的な問題について。これが特に難しく取り組むとしたら自分の全てを賭す覚悟がないと最低限のスタートラインにすら立てないと考える。


選択肢や視点

・個人や狭い範囲の幸せだけに留め、世の中の様々な問題は距離感を大きく保って感情移入しないように気を付ける。人付き合いも極少数にしてひっそり生きる。
これは大抵の人がしている事であるし、古の隠者などもしていた事なので、建前的には面目が立つけど本音としては自己ツッコミが起きるから、自分で自分を心理操作して洗脳すれば…?

・上記よりかはもう少し交流を増やして、合いそうだったり興味を抱いた人や催しに参加してみる?

・30半ばくらいでようやく落ち着くまでは、様々な不遇や逆境など差し迫った事への対処が優先された事もあって、取り敢えずやってみる行動してみるとなり、今のように熟考や長考する機会も無かった。
また元々は没頭集中型だったので、その気質や背景が重なってMBTIで言うところのSとなり、27~30歳くらいに大きな精神的不調を機会に逆側を特に意識して学び身に付けようとし、球や円を意識してバランス感覚を大切にしようと心掛け主に老荘を参考にした。
その大きな不調までは不遇や逆境の補填というか、これだけ苦労してきたのだから、それに見合った何かが欲しいと強く想っていたし、生き死にや人間として産まれてきた意義を考え続けてもきたから、結果的には歪んだ承認欲求が肥大化していた。自己肯定感が低く対人不安も強かったのに芸能活動などを少ししていたけど、それで却って自滅的になっていたし差し迫った事への対処に追われていた事で自分自身の心と真摯に向き合う機会も大きな不調まで得られないままであった。
自分には何一つ長所は無いように思い込まされていたり思い込んでいたりもしたけど、よくよく考えてみたら相応にあるものはあって、新たに何かを獲得するより既にあるものを大切にしようと気持ちが切り替わっていった。
それまでの逆境に一区切りがついて人生やり遂げた気持ちになって一時期エンディングノートに関心を抱いていて、福祉施設で知り合ったお婆さんに話したら、まだ早いでしょ!って言われた 笑。

・落ち着き出した事や、差し迫った事が取り敢えずは無くなった事でMBTIで言うところのSからNへと変化したのだと思う。その後は状況に合わせてSとNを使い分けるように?
また個人としては差し迫った問題が無いから観察長考重視で社会的にはあまり行動せずに繋がってもいるように思え、観察長考重視が取り敢えずやってみる行動してみるという傾向を弱め、やる前から完璧主義傾向に寄り過ぎあまり行動しないを誘発しているようにも思った。
そして完璧主義傾向が強まると自分にも他人にも厳しくなって許容範囲が狭くなり、自分も他人も許せない気持ちが湧きやすくなるなと思った。
それが、より人付き合いを避ける傾向に繋がり、それによって更なる観察長考重視を誘発しループしている 笑。
ただ逆に許容範囲を広げた場合、自分も特に何もしなくてもいい、あれ、それだったらそもそも人付き合いって何の為に?との疑問も生じる。

・個人の、地域の、日本の、人類の、生物の、地球の、宇宙の…。
視点によって善悪や優先順位が変わってしまうし、価値観の相違も起こりやすくなってしまう。
そういった視点が時たま脳内で複雑になり混乱が起きている事がある。多種多様な色の絵の具を筆につけてはキャンバスに飛ばしてを繰り返して出来たものの様な脳内、脳内が多重分散している感じ。
震災の時は多くの人達にとって共通の被害だからか、飲み会自粛などの賛否両論はあったけれども、被害に遭った人達を思い遣る姿勢は大部分の日本人や外国人がしていた。不遇な人や一部の外国人は、ざまぁ!とか、メシウマとか、天罰とか、おめでとうとか、皮肉った嫌味な意見も見受けられ、快くはないが背景を考慮すれば気持ちの理解自体は出来る。
震災ではあれだけ多くの人達が反応したのに、虐待や虐めやハラスメントや貧困や障害などは、震災と比較して関心を抱かれにくい。自分や自分が大切に思う存在が被害に遭わないと現時点で思い込んでいる事柄には深く関心を抱かない傾向が人間の性なのだろうか?ただ、その事によって巡り巡って思わぬ被害に遭っている人達(通り魔など各種犯罪被害者、世界的な思惑による被害者)も様々出てきてしまっている。
視点も生物や地球を重視して偏ってしまえば、人類みたいな人類が知る限りで最も極悪な種族は絶滅するのが正しいとなってもしまう。
生物の視点であっても植物であれば多くの人類はそんなにも情感を覚えないかも知れない?けれども植物の世界だって日々熾烈な生存競争が行われている。植物の生存競争は人類や動物より逞しく、例えば竹とか凄まじいですよね。
視点を宇宙にすれば、宇宙の誕生から地球や生物や人類や国家が存在していた訳ではないとされている。となれば、その存続に拘る事はある意味で不老不死を求めるような愚かな事と捉える事も出来てしまうと思う。
所詮は人類、白駒の隙を過ぐるが如しのように一過性の存在に過ぎないちっぽけな種族。
万物斉同。色即是空、空即是色。

・個人の、地域の、日本の、人類の、生物の、地球の、宇宙の…という視点を、多くの人達はどのように処理しているのか気になった。
政治社会や世界情勢は、基本的には正義vs正義の対立が多く、正義の押し付け合いが多く、結果的に争いが多く…。
正義の押し付け合いは紀元前から続く過去の歴史の繰り返しであり、資本主義vs共産主義の棲み分けもうまくいかず互いに様々な介入が見受けられたり、それぞれの国家内でも様々な問題が生じたり。
個人の、地域の、日本の、人類の、生物の、地球の、宇宙の…という視点をただ話す、という姿勢は何が正しいか?を決めるものではなく、視点を増やしたり、視野を広げたり、思考を柔軟にしたり、即効性は無いけれども、例えば様々な不遇や逆境や障害を知る事で人間理解が深まるように、過去の繰り返しではない未来に対しての何かに繋がるかも知れない?

・生物、特に人類は強欲さに際限が無いのだろうか?現代に於いても様々な理不尽や汚職など問題は多岐にわたる。それでも過去の歴史に於ける為政者による悪政や残酷な処刑や拷問は現代ではほぼ行われないようになった。
今よりも生きる事が困難であったから幼少時に亡くなる事が多かったし、50年も生きれば十分という一般的な認識もあったようだし。けれども現代は80歳まで生きて当然という認識が出来ているし、レールとして学校に通って就職して結婚して子育てして老後を迎えて…、その認識が昭和では当然のようであったけれども平成あたりからそうではなくなってきた。多くの人達にとっての信仰が崩壊してしまった。
信仰が必ずしも悪いとは言えないが、普遍的ではないものを盲信する事への疑問は大いにある。普遍的ではないものはビギナーズラックのように偶々うまくいく事は起こり得ても、常時うまくいく事には繋がらない。だから古典でも古来でも勝つことより負けない事を徹底した人や組織が結果的にうまくいっている。かといって全てに於いて慎重なだけの人や組織も時に破滅しているから時勢に合わせた大胆さも時には肝要。


距離感や立場による認知の違い

・一時期、多大な批判を受けた和民の渡邉美樹さん。生い立ちの逆境をバネに努力して相応に成功するが、自分の努力姿勢を基準として他者である社員にも強いた事で社会的に大きな批判を受ける事となるが、和民や渡邉美樹さんを批判された本を自ら読んで内省する姿勢も示されていた。
距離感がある場合は渡邉美樹さんの苦労も努力も解るし、視点によっては自分自身に厳しくあったから成長して成功へと繋がった、だから社員にも厳しくは父性愛であったかも知れない?もちろん業績を上げる為の厳しさも十分に含まれていた事とは思う。受け取り側の視点としては、ブラック企業の代名詞のように理不尽に厳しいだけで報酬も少なく報われず使い捨てにされただけと思った人も多いだろう。
そういう様々な視点で冷静に観れるのは、渡邉美樹さんとの接点が無いし、殆ど利用した記憶が無く和民系列の店で理不尽な行為を受けていないし、従業員として働いた事もないからだろう。

・女優の沢尻エリカさんが一時期「別に」の騒動で叩かれた事があった。当人なりの弁解はされているけれども、根本的な部分は生い立ちの不幸が影響しているのでは?と僕は思っていた。
芸能界も経済界も生い立ちは不幸である人達が活躍している事が多い。それだけハングリー精神が養われるからだと思う。逆に二世や三世はハングリー精神が弱い事も多々ある、けれども常に初代や先代を比較対象にされ、自分自身をありのままで観てもらえない!という不満が見受けられる場合もある。
ハングリー精神については歴史上の様々な分野の偉人達も生い立ちの悪さが多々見受けられ、生物は不満を感じるからこそ成長しよう進化しようという気持ちが湧き立ち、逆に不満をあまり感じなくなっていくと自らを家畜化していくところがあるのだと思う。

・京都アニメーション放火殺人事件の青葉真司さん、名古屋の強盗殺人事件の山田(松井)広志さん、秋葉原通り魔事件の加藤智大さん、大阪姉妹殺害事件の山地悠紀夫さん、こういった事件の加害者達の生い立ちはとても悪い事が多い。
見識が狭く浅い人達は単に蛇蝎のごとく嫌っている事が多い。世の中への関心が狭く浅い人達は自分達が被害に遭わなければ気にしない傾向で結果的にどこかで大きな被害に遭遇していたりする。見識が相応に広く深い人達は、生い立ちに深く同情しつつも、落ち度の無い人達を犠牲にした事に対し非難をしている。
その非難をしている人達の中でも、やられた人にだけやり返せ(部外者を巻き込むな)という意見も多々見受けられる。その意見を前提に考慮するならば、現在の日本人の8割9割が自滅していっているのも無関係であるから巻き込むなという意見が成立する事となり、総じて労働者が機械に取って代わられるのも素直に受け入れろという事を大多数の人達が尊重している表明ともなる。
違う言い方をすれば、イジメに於いて傍観者が多数派であると言われているが、それを肯定する場合はその傍観者達が困窮しても傍観者でいて良いという選択が整合性があり成立する事となる。それが昨今の日本社会でしょう?

・僕の立場としては、無敵の人からによる被害を受けた経験が無い。僕自身の中に無敵の人の側面(背水之陣、薩摩示現流、神風特攻)もある、生い立ちと歴史の学びによる。
僕が主に理不尽な攻撃を受けたのは、僕から観たら大した不遇も逆境も体験していないと思え、合法的に削除しようと思えば出来てしまうと判断する主に男性から。
逆に大した不遇も逆境も体験していると思える人は努力家で自責傾向な人達であった。
日本や日本人が大切と主張する人達の大半は、日本人の中で様々な不遇や逆境や障害で困窮している人達の実態に詳しくなく、そういった人達に寄り添う事がなく、その姿勢から単に狭い範囲の身内の安泰を望んでいる事が物語られていた。
結局のところは、そのような姿勢の人達が愛国だ保守だと言っていても、棄民的な立場に立たされた人達は愛国や保守に強い反発を抱くだけで、愛国や保守とは真逆の立場で生きようとするから結果的には敵性勢力を育む事に繋がる滑稽な選択をし続けているに過ぎない。
僕の立場からすると中道右派なリバタリアンを兼ねるといった感じであったが、主に高齢男性の愛国保守派の中身が僕にとっては及第点に達していないと判断したし、日本や日本人に大切にされなかった人達がどのような感情を抱くかという視点に欠けていると強く想った。

・過去を振り返ると、その場で反論なり反撃なりをしておらず、鬱気味なり対人恐怖なり引っ込み思案なりで気持ちが負けていたり、相手の背景を考え過ぎて我慢し過ぎたり、そろそろ縁が切れるから反論なり反撃すると相手に学びの機会を与えてしまい反論反撃しない方が結果的に相手の時間を奪う事になり(気付きが遅くなるから時間の浪費に繋がる)相手の自滅に繋がると選択した事が、未だに時に引っ掛かりとなる事があるんだなと思った。
婉曲表現に対しても徹底して言い合わなかった事へのわだかまりが禍根となっている。ただその分、返礼として婉曲表現を使った相手の意向に沿う事はしない。僕の視点からしたら君ら愛国保守派の高齢男性の願望を破壊して頂きたい表明の為に婉曲表現を使ったと私は受け取っている。
年輪の数だけで厚みの無い高齢男性が、愛国だ保守だって売れないお笑い芸人かよ?そのやり方を長年続けてきて成果は得られたのですか?30~40年の衰退自滅はなに?成果の出ないやり方に拘り続ける意図はなに?

・逆に反論反撃したり、後から復讐した場合は、その後に引っ掛かりやわだかまりが残らない。
引っ掛かりやわだかまりも、世の中の事をあまり思慮せず、隔離して桃源郷に逃避している時は湧き立たない。
世の中の事を様々感じて考え、自分の裁量で解決出来ない問題が多々あり、想うところがあっても日本人への信頼性が低めであり、基本的に日本人が表層に於いては善人が多い事は理解しているが、コロナ禍で解るように100中8が理不尽だと認知していたものが、状況によっては100中80が理不尽になり得る事を見せつけられたから。
また日本人は養豚場の外の視点を持っている人や望んでいる人が圧倒的に少ないから、結局のところはこれから先に起こる不幸も民意となる。


人間が石であった場合

人間が石であった場合に世界をどのように認知していただろう?
人間は自身が人間であるから、人間を特に気にして認知してしまう。
近しい様々な動物や鳥や魚や昆虫を気にして認知してしまう。
草木山や川湖海を気にして認知してしまう。
ただ、どれも人間の生活にも影響するから気にして認知するのだろうか?

木や山の保護、川や海の汚染やゴミ、そういったものを気にして認知するのも生活に影響するからだろうか?
岩や石の保護活動は聞いた事がないし、金や銀は虐待を受けているから金や銀の権利を護ろうという話も聞いた事がない。
また路傍の石を観て、あの石は強いとか、あの石は勝ち組とか、あの石は羨ましいと嫉妬するとかを想う人間はそうそういないだろう。
鉱物の中で人間の主観によって比較される事はあっても、それ以上の何かは見受けられず。

鉱物を採掘する事で生態系のバランス循環が崩れるとか、火山の噴火や大地震が誘発されるとか、何か問題が判明した時に初めて鉱物への見直しが行われるのだろう。

結局のところは、その程度の人類と路傍の石ころに大差はあるのだろうか?


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