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「桃源」 火坂雅志 「壮心の夢」より


「お言葉を返すようでございますが、但馬国竹田の城下では、赤松広通どのが民に仕えるまつりごとをおこのうておられまする」



「桃源」 火坂雅志  「壮心の夢」より




安土・桃山時代、日本で戦国時代と言われていた頃のことです。


竹田城・最後の城主 赤松広通(ひろみち)は、もともと、兵庫県の龍野城の城主であり、龍野・赤松家は西播磨に勢力を張っていました。


その頃、急速に勢力を拡大しつつあった戦国大名・織田信長が、つぎに狙いを定めたのが中国地方。


信長の中国攻めがはじまりました。


織田信長の命をうけた羽柴秀吉(のち天下統一を成し遂げた豊臣秀吉)が、まず中国地方の手前にある播磨を従えてゆきます。


龍野城の城主・赤松広通はまだその頃16歳。


強大な勢力の織田軍に対して、広通の家老たちは戦わずに城を明け渡しました。


そして


広通は、佐江村というところに退隠させられたのです。


そこで、出会いがありました。


藤原惺窩(せいか)


現在の兵庫県三木市の生まれのこの若者は、のち、近世儒学の祖と呼ばれるようになります。


そんな惺窩は城主の座を逐われたからといって卑屈にならず、いまの境涯を楽しんでいる広通に好感を持ちました。


広通のほうもまたしかり。


あるとき、広通は惺窩にたずねます。

「宗舜(そうしゅん、惺窩の法名)どのは、どのように生きたいとお考えですか?」


広通はつづけます。

「私には、生涯をかけて為してみたいことがあります」

「ほう、それはいったい何です?」

「人に話せば、笑われます。宗舜どのも、きっと笑われるにちがいない」


「笑わないのでどうか聞かせてほしい」
と惺窩は言いました。


「桃源郷をつくりたいのです。」
と広通は惺窩に向かって言いました。


広通は戦乱に明け暮れ、重い年貢に苦しんでいる民を見て、いくさがなく
すべての民が安心して暮らせる国をつくりたいと考えていたのです。


それから時は流れ、惺窩は儒教に出合い、広通にも変化が訪れます。


織田信長が家臣の明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で討たれてしまいました。


中国攻めをしていた羽柴秀吉は、この知らせを聞き、毛利軍と和議を成立させました。そして、急速なスピードで取って返し、京都の山崎で明智光秀を討ったのでした。


秀吉はこの後、信長の後継者として天下人への道を歩んでゆきます。


広通は蟄居を解かれ、秀吉軍の一翼を担うようになりました。


賤ヶ岳の戦い、四国の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)攻めの功により、ついに竹田城の城主に。


但馬国竹田二万二千石の領主です。


赤松広通が竹田城主になり、ふたたび惺窩に会うことになりました。

「ぜひとも竹田へ、お越し下さい」


7年ぶりの再会。


広通の桃源郷への想いは、まったく変わっていませんでした。

「私はここを、民を至上のものとして貴ぶ国に為します。そのためにこそ、私はしたくもない合戦をし、領地を手に入れたのです」


惺窩も同じ気持ちで

「思いは広通どのと同じです。私もこの日のために学問に励んできた」


広通は藤原惺窩を客分として厚く遇し、ともに新しい国造りに乗り出したのでした。


重すぎる年貢を引き下げ、領内に産業を興しました。


すぐれた人材を登用するため「科挙」という試験もおこないました。


2人の政策は成果を上げ、諸大名の間でも評判になります。

山国但馬の山峡を、澄みわたった清冽な円山川がゆるやかに流れている。

竹田の城下は、その円山川ぞいの播但街道の両側に細長い帯のようにひろがっていた。


豊臣秀吉が伏見城にて世を去ったあと、秀吉の子・秀頼を押したて豊臣政権を死守しようとする石田三成派と五大老筆頭の徳川家康派にわかれ、天下を二分する大合戦の気運が高まっていました。

「また合戦か・・・・・」

(中略)

ふたたび竹田城下を訪れた惺窩は、人変わりしたように精気の失せた広通を案じていた。

「のう惺窩どの。人はなぜ血を流して争うのであろうか」

「少しでも多くの利をもとめるのが、我ら凡愚の衆生の性だからでござりましょう。人の欲には限りがありませぬ」

「それでは、あまりにもむなしいとは思わぬか」

「思いまする」

「私もかなしい・・・・・・・。近ごろでは、おのれが信じてきた仁のまつりごとも、しょせん大波の前の砂の楼閣ではないかと思うことがある。」

「気の弱いことを申されるな。広通どのの仁政のおかげで、竹田城下は富み栄え、民はみな、あなたのことを聖人のごとく崇めたてまつっているではありませぬか。広通どのの為してきたことは、むなしい行為ではござりませぬ」

「しかし、惺窩どの」


広通の桃源郷への思い…


戦国の世にあって、民のことを親身に考えた城主は、唯一、赤松広通だけではないでしょうか。


広通と惺窩は、その民が平和で幸せな暮しができるように、竹田城から見守っていたにちがいありません。


僕はかつて竹田城跡に登ったとき、あんなにゆったりいい気持ちでお城の石垣に登れたのは、そんな歴史の中の2人の気持ちに出逢えたからかもしれないとこの本を読みながら考えました。

広通は関ヶ原合戦で西軍方(豊臣方)につきます。そして、丹後田辺城を攻めました。

仁義を貴ぶ儒教を奉ずる広通は、主君の豊臣を裏切ることはできませんでした。


関ヶ原では徳川方が勝利。直接関ヶ原を攻めなかった諸将は咎めを受けませんでした。それを聞いた惺窩は安心します。


しかし


惺窩のもとにもたらされた知らせは、広通が切腹して果てたということでした。

関ヶ原合戦ののち、家康より因幡の平定を命じられた中国筋の大名、亀井茲矩(かめい これのり)が、かねて旧知の仲であった赤松広通に援軍をもとめてきた。

広通はこれに応じ、兵を発したが、城攻めはうまくいかず、亀井の陣中から出た火がもとで鳥取城下は灰燼(かいじん)に帰した。

「城下を焼くとは何たることじゃ」家康は立腹し、失火の責任を亀井茲矩に問うた。

この責めに対し、保身にたけた茲矩は、「あれは、赤松広通が火を放ったものにございます」と偽りを言い立てて罪を広通にかぶせたため、無実の広通が腹を切らされたというのである。



竹田城最後の城主・赤松広通は、桃源郷を夢見ながら邪な男の讒言により、徳川家康に切腹を命じられ、鳥取の真教寺にて果てました。

「ばかなッ!」

話を聞いた惺窩は、人目もかまわず、声をあげて男泣きに泣いた。


最後にこの言葉が、一番印象深く心に残りました。

「赤松広通以外の武将は、是ことごとく盗賊であった」



【出典】

「桃源」 火坂雅志 文藝春秋 「壮心の夢」より


■赤松広通の長編小説


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いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。