Shida Shougo

「聖書のお話し」、「信仰」について書いてきましたが、もっと色々なことについても書いてい…

Shida Shougo

「聖書のお話し」、「信仰」について書いてきましたが、もっと色々なことについても書いていきたいと思います。どうぞ気軽に楽しんでいって下さい。よろしくお願いいたします。2004年より日本基督教団牧師。2020年より無任所牧師。

最近の記事

ぶどうの物語

ひさしぶりの投稿です。 聖書にはぶどうに関わる物語がいくつか出て来ます。でもぶどうそのものについてのお話はほとんどありません。聖書の時代のぶどうはどんなものだったのかなぁと思います。 日本で「ぶどう」というと「秋の果物」で、基本的には「生食」というイメージがあろうかと思います。でも歴史を調べるとぶどうはワインやジュースといった加工原料として生産されていたことが分かります。現在でも世界的にみればぶどうは生食よりワインやジュースの原料として生産されていることがほとんどです。日

    • はじまり

      物事にははじまりというものがあります。 4月という季節は多くの人にとってはじまりの季節と言えるでしょう。 皆さんははじまりについて考える時、ワクワクしますか?それとも不安になったり気持ちが凹んだりしますか?きっと、自分で進んで何かをはじめたというならワクワクするだろうし、そうでなければそもそもはじまりを感じないなんとなく月日が過ぎているだけということもあるかもしれません。 この春、僕の人生において新しいことがはじまりました。 ものすごくワクワクしています。あんなことやこんな

      • 物事を前に進める力

         日々色々なことが起こっている。何もない一日というのがあると感じるなら、それはただ単に起こっている出来事に気が付いていないだけかもしれない。あるいは起こっている出来事がパターン化していて気に留めるほどではなくなっているのかもしれない。でも、そんな一日を過ごすことが出来ているとしたら日常が平穏だということでもあると思う。だから決して悪いことではないと思う。  困難というのは、あぁ、多分起こるだろうなぁとある程度予測出来る範囲内で起こることもあるだろうし、よくよく考えてみたら、

        • 「我田引水」と「明鏡止水」

          「我田引水(がでんいんすい)」という言葉は「自分にとって都合の良いように振舞う人」を指して使われます。他者のことなど省みずに自分さえ良ければ良いという自己中心的な人に使われるただただネガティブな言葉です。 一方「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉は「鏡のような波ひとつない静かな水面のように心が静かで落ち着いている(悪意や邪な心がない)人」を指して使われます。この言葉はもう見るからに落ち着いた雰囲気をかもし出していると思います。なんだか文字そのものがカッコイイとも思いま

        ぶどうの物語

          救いは信じる者に与えられる

          「信じる者は救われる」と言われるけど、「何を信じるか?」ということは人それぞれで、「これを信じないと救われない!」なんてことはない。だから、「信じる対象」というのは限定的な何かを指しているわけではない。じゃぁ、「何かを信じていれば救いを得られるか?」というと、僕には分からない。でも僕は何かを信じていることで救われることはあると思う。 人は誰でも何かを信じてると思う。スピリチュアルな何かを信じていたり、非科学的なことを信じていたり、逆に、根拠がはっきりしていることしか信じない

          救いは信じる者に与えられる

          世界は一つだが見え方が違う

          僕が牧師をしていた頃、世界は福音を伝える対象に見えていた。世界には救いが必要だと、癒しが必要だと、平和が必要だと、そんな風に見えていた。神さまから与えられた使命がそういう風に見せていたのかもしれない。それは今でも変わらない所があるけど、でも、違う視点で見えるようになってきた。 牧師を辞めて関わるようになった人たちは圧倒的にキリスト教を知らない人たちが多くなった。宗教や信仰なんてものとはある意味無縁に生きてきたという人が多くなった。もちろん正月の初もうでとか、お盆とか、お祭り

          世界は一つだが見え方が違う

          新しい生き方に導かれた

          牧師を辞めて新しい仕事をはじめた。 実は、今している仕事の前に別の仕事をしていたのだけど、それは色々な事情で長く続けられなかった。仕事が嫌だったとか、合わなかったとかそういうのではなくて、むしろ楽しかったし、続けられるものだったけれども、直接仕事とは関係のないことで辞めることにした。 それで、今は別の仕事をしているのだけれど、それが思いがけない仕事で自分でもなんだかすごい導きだなぁと感じている。 牧師というのは、聖書的に言えば「羊飼い」で、イエスさまが弟子たちに「わたし

          新しい生き方に導かれた

          牧師を辞めて

          牧師を辞めて1年が過ぎた。 僕の信仰がどうなったかというと特別な変化はない。むしろ、自分の信仰がどのようなものなのか輪郭がよりはっきりしたように思う。もちろん牧師をしていた時もそれなりに自分の信仰の輪郭ははっきりしていたけれど、それは「牧師として何を伝えたいか」という点での輪郭であって、「キリスト者(信仰に生きる者)として何を求めているか」という点での輪郭ではなかったように思う。 そんなことを考えていたら、牧師をしていた時というのは随分一方的だったんじゃないかと思えてくる

          牧師を辞めて

          宗教はどうなるのか?

          「将来的に日本から宗教は消滅する」という主張があります。もちろん色々なデータをもとに主張されているのだけれども、僕はこれは正しいと思っています。僕自身、牧師をしていた数年前から日本という国から宗教は消滅すると考え主張して来ました。 僕はキリスト教の牧師でしたから他の宗教のことを詳しく知っているわけではありませんけれども、少なくともキリスト教のプロテスタント教会はなくなると考えています。その根拠は単純明快です。信徒がいなくなるからです。信徒がいなくなったらその宗教は成り立ちま

          宗教はどうなるのか?

          神の言葉は役に立つ

          以前書きましたが、神の言葉を直接聞いたことがあるという人はいませんし、神の言葉そのものを語ることが出来る人もいません。聖書も神の言葉としては間接的なものなのです。 時々、「聖書の言葉はその通りだった」というような経験をされた方が、SNSなどにその経験を投稿されているのを見ます。僕自身はそれはそれで良いことだと思っています。その人が「神の言葉を体験した」ということですからね! 言葉というのはインプットするだけでは役に立ちません。たとえば、難しい言葉を覚えていてもそれをアウト

          神の言葉は役に立つ

          「3人の博士たち」(2009)

          「3人の博士たち」(2009)

          「日曜日」の意味

          キリスト教で「日曜日」は「主日」あるいは「聖日」と言われます。聖書的な根拠からすれば「安息日」と言います。今回は「日曜日」についてお話したいと思います。 と、その前に、キリスト教の立場から厳密に言うと「日曜日」を「主日」と呼ぶのではなくて、「主日」としていた日が「日曜日」になったという方が正しい理解かと思います。教派によっては必ずしも「日曜日」が「主日」ではありません。またそういう教派では「主日」と「安息日」を別の日としているところもあります。 「天地創造」が由来聖書には

          「日曜日」の意味

          「羊飼い」(2006)

          「羊飼い」(2006)

          「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

          行間を読むシリーズ#4 マタイ福音書5章38節~42設 キリスト教のことを知らない人でも、きっとこの言葉を聞いたことがあるという人は多いのではないかと思います。 いやいや、僕はね、そもそも右の頬を打たれること自体嫌ですよ。それなのに、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいって!無理無理…涙 キリスト教を信じている人ってみんな本当にこれをそのまま受け取っているんだろうか?そんな疑問を持っている人もそれなりにいるのではないでしょうか。 実際はね、誰も右の頬さえ打たれたくな

          「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

          「エルサレム入場」

          「エルサレム入場」

          「躓き(つまずき)」

          キリスト教には独特な言葉がたくさんあります。そういう言葉はキリスト者同士なら通じても、あまり一般的ではない故になかなか通じないのではないかと思います。その中でも「躓き」という言葉は相当難しい部類に入るのではないかと思います。それにも関わらず、おそらく使われる頻度が高いだろうと思います。 こういった言葉はちゃんと使われていないとなんとなく知っている人ならニュアンスが伝わっても、そうではない人たちに誤解を与える可能性があるように思います。というわけで今回は「躓き」について改めて

          「躓き(つまずき)」