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宗教はどうなるのか?

「将来的に日本から宗教は消滅する」という主張があります。もちろん色々なデータをもとに主張されているのだけれども、僕はこれは正しいと思っています。僕自身、牧師をしていた数年前から日本という国から宗教は消滅すると考え主張して来ました。

僕はキリスト教の牧師でしたから他の宗教のことを詳しく知っているわけではありませんけれども、少なくともキリスト教のプロテスタント教会はなくなると考えています。その根拠は単純明快です。信徒がいなくなるからです。信徒がいなくなったらその宗教は成り立ちませんからなくなるのは自明の理です。

ここでは根拠となるデータを一つ一つ挙げることはしません。なぜならプロテスタント教会がなくなるという主張を根拠を挙げて証明しようとは考えていないからです。ここで書こうと思っていることは、宗教はなくなっても信仰はなくならないということです。

「にわとりが先かたまごが先か」

これは丁寧に書かなければならないことですが、既存の宗教が宗教のままあり続けようとするならなくなるとも考えています。信仰は宗教を生み出しました。けれども宗教が信仰を生み出したわけではないのです。

「にわとりが先か卵が先か」なんて言うことがありますけれども、にわとりがいないのににわとりの卵が存在するわけがないのですからこの議論は、にわとりが先だというのが結論だと僕は思っています。

にわとりというのは宗教を生み出した信仰のことです。卵というのは信仰によって産み落とされた宗教のことです。この点が逆に考えられているのではないかと思うことがしばしばあります。キリスト教がなければキリスト教信者になれないのではありません。あなたがキリストを信じるならキリスト教というものがなくてもキリスト信仰に生きていると言えるのです。

宗教なんてものはなくなったって良いのです。大切なのは信仰がなくならないということなのです。宗教に依存した信仰は消え失せます。でも、宗教に依存しない信仰は消えることはありません。だから宗教が宗教としてあり続けようとするなら宗教は消えるのです。

既存の概念から自由な信仰

最初に書きました、信徒がいなくなるからプロテスタント教会はなくなると言ったのは、プロテスタント教会に依存した信徒がいなくなるという意味です。教会という建物やその概念から自由な人は信仰を持ち続けるでしょう。すでに、既存の教会というものに辟易している人が大勢います。

なぜ既存の教会に辟易するのかと言えば、そこに純粋な信仰の形が見えないからです。もっと言えばキリストが見えないからです。そんなのなくなって当然です。だって神さまが望んでおられるものではないからです。

だから、そういう既存の宗教、教会の概念から自由な信仰を持ち続けて生きている人こそが本物の信仰を持っている人だと思うのです。そして、そういう人が一人また一人と増えていけば、おのずと宗教なるものが形作られて行くだろうと思います。

宗教が宗教としてありつづけようとするということは、宗教の世俗化ということが出来ると思います。神と向かい合うのではなくて、いかにして世俗に存在するかということに心を奪われているからです。神と相対するのではなくて、人や世と相対する世俗化した宗教は、そもそも宗教と呼べないのではないかとさえ思います。

市場原理導入の末路

現在、多くの宗教で信徒、信者が激減しているのは、宗教が信仰を大切にしてこなかったということに他なりません。これまで宗教は宗教として(キリスト教はキリスト教として)こうあるべきだという自らの傲りとも言えるような形で存在し続けて来たわけです。

さっきの話で言えば、たまごが自分はにわとりだと勘違いしていて、たまごを産んでいると思っていたわけです。本来にわとりである者もにわとりである自覚なしにたまごだと思わされてきたということもあるでしょう。

現在のこういった状況(世俗化)は、「市場原理の導入の末路」と言い換えても良いかもしれません。

「市場原理」というのは、商品の売れ行きを左右する最大の要因は価格であると言われますが、商品の質が判断出来ないような場合、消費者は商品を何で判断するかと言うと、第一に価格で判断するわけです。そうすると安いけれども品質の低い商品が良く売れるようになってしまう。結果、消費者は自ら品質の低い商品を買い続けることになってしまうわけです。

現在の宗教も同じではないでしょうか。にわとりがにわとりである自覚をしっかりと持って、ちゃんとしたたまごを産み落としてそれを育てなければならないのです。にわとりがたまごに依存して育ててもらおうったってそんなの無理なんです。

こういった逆転現象を打ち破って行くことと、市場原理によらない土壌の回復がこれから宗教が宗教として残っていくためには必要不可欠なことではないかと思うのです。そしてそれをするのは他でもない信仰に生きているあなた自身なのです。






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