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「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

行間を読むシリーズ#4

マタイ福音書5章38節~42設

キリスト教のことを知らない人でも、きっとこの言葉を聞いたことがあるという人は多いのではないかと思います。

いやいや、僕はね、そもそも右の頬を打たれること自体嫌ですよ。それなのに、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいって!無理無理…涙

キリスト教を信じている人ってみんな本当にこれをそのまま受け取っているんだろうか?そんな疑問を持っている人もそれなりにいるのではないでしょうか。

実際はね、誰も右の頬さえ打たれたくないですよ。もし右の頬を打たれたって誰も左の頬を向ける人はいませんよ。むしろ右の頬を打たれたら、相手の右の頬を打ってやろう!いや、倍返しだ!とさえ思っている人いるんじゃないでしょうかね。

「復讐してはならない」

この箇所には「復讐してはならない」という小見出しが付けらえています。でもね、右の頬を打たれたら、左の頬を向けるってちっとも復讐と関係ないじゃないですか…汗

「右の頬を打たれても、相手の頬を打ってはならない」ではないんですよ。これなら見出しと合うけれども、左の頬を向けなさいっていうのは、そもそも復讐っていうよりもっと受けろってことやん!って突っ込みたくなりますよね。

この「頬」の話の前に「目には目を、歯には歯を」というのが出てきます。これも聞いたことがある言葉だろうと思います。これらは『同害復讐法』と言って、やられたことと同じことで報復することが出来るというのがもともとの意味なんです。

それにしたって、「左の頬をも向ける」というのはどう考えたって「復讐してはならない」というのとは合いませんよね。

時代的背景

この箇所についてこんな解釈があります。主人と奴隷がいて、主人が奴隷を打つ時、右手(利き手)で普通に打つと左頬を打つことになるわけです。だから、右手で右頬を打つとしたら平手打ちではなく裏拳で打つことになる。これは主人が奴隷を打つ時の打ち方で、平手で打つと汚れるからだというのです。

そこで奴隷が裏拳で右頬を打たれた後で左頬をも差し出して、それを主人が平手で打ったら、さっき書いたように主人は汚れる(主人が汚れると思っていることが起こる)。そうすると主人と奴隷の関係が「主従関係」あるいは「上下関係」から「対等」なものになる。主人にとって左頬を向けられるというのは実はとっても屈辱的な態度なのだというわけです。

色々な解釈の仕方があるでしょうけれども、物理的にも理にかなった解釈じゃなかろうかと思います。確かに、右手では右頬を打つことは出来ませんよね。

復讐と関係ない?

そうだとしても、右頬を打つ者と対等の立場になったとして、あるいは相手に屈辱を与えるような態度だとして、それと「復讐してはならない」という見出しとはやっぱり合わない気がしませんか?

この箇所に出て来るたとえは他にもあります。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」「だれかが1ミリオン(約1480m)行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」とあるわけです。

ね!出だしこそ「目には目を、歯には歯を」って引き合いに出されているけれども、その後で言われていることはちっとも復讐とは関係ないことなんです。

相手の要求の上を行く

なんだか少し安っぽい感じがしますけど、つまりここで言われていることは、簡単に言い換えれば「相手の要求の上を行く」ってことです。相手が要求することを受けるだけじゃなくて、それ以上のものをあなたは提供しなさいよって言っているわけです。

なんでこんなことを言うんでしょうか?こんなことばかりしていたらこっちの身がもちませんよね…。いつもいつも自分が犠牲を被るばかりです。言い換えるなら極限まで損をする生き方と言っても良いかと思います。こんなの無理ですよね…。

誰でも相手こそ自分の要求を汲んでそれ以上のものを提供してくれたらってそう思って生きていると思います。自分は相手の要求をそこそこ叶えてあげて、こっちは要求以上のものを手に入れて得をしたいって思っているはずです。

愛されていることと関係する

「敵を愛しなさい」という記事を書きましたけれども、そこで「徴税人」がたとえに出されて「愛してくれる人を愛することは徴税人だってしてる」って言われていました。

基本的にわたくしたちが「損」をしても良いと思える相手は「愛する人」だけでしょうね。敵なんて無理です。頬を打ってくる者も無理です。そんな相手に右のみならず左の頬も向ける?相手の要求の上を行く?無理無理…汗

そうなんです。無理なんです。こんな無理難題は実践不可能です!でもね、イエスさまを思い出してみてください。わたしたちは敵も敵じゃない者も愛することが出来ないけれども、少なくともわたしはイエスさまに愛されている。

そう考えると、このお話は、あなたが何をすべきか!ということを教えたり、勧めたりしているというよりも、イエスさまご自身があなたとどう関わって下さったかということを思い起こさせるお話なのだと思うのです。

わたしを愛してくれたイエスさまを思い起こして、その愛がどれほどのものであったかを受け取ることからしかこのお話は分からないだろうし、わたしが何かをするとしてもそこからしか始まらないと思うのです。

おわり

誰でも「主人」の側にいたい。善人の側にいたい。だからこそ、奴隷を打ったり、相手を訴えて下着を取ろうとしたり、誰かに1ミリオン行くように強いたりするということが起こるのではないでしょうか。そっち側に立つことこそが正義だと思うことから逆転が起こってしまうのではないでしょうか。

でもそんなわたしたちの要求のはるかに上を愛を持って応えて下さった方がいる。それがイエスさまであることを思い起こしながら、出来ないわたしだけれどもイエスさまの十字架による愛の大逆転劇の中で、何か少しでも出来ることがあるといいなと思います。



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