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世界は一つだが見え方が違う

僕が牧師をしていた頃、世界は福音を伝える対象に見えていた。世界には救いが必要だと、癒しが必要だと、平和が必要だと、そんな風に見えていた。神さまから与えられた使命がそういう風に見せていたのかもしれない。それは今でも変わらない所があるけど、でも、違う視点で見えるようになってきた。

牧師を辞めて関わるようになった人たちは圧倒的にキリスト教を知らない人たちが多くなった。宗教や信仰なんてものとはある意味無縁に生きてきたという人が多くなった。もちろん正月の初もうでとか、お盆とか、お祭りとか、あるいは家に仏壇があるとか、そういう元々は宗教や信仰と深い関わりのある事柄は知っているし参加したことがあるけど、それとこれとは別という感じの人が多かった。

そんな人たちはこの世界をどのように見ているのだろうか?牧師をしている時にも同じようなことを考えていたけれど、それは福音を伝えるという視点から考えていたことであって、今はこちら側から何かを伝えるためにそれを知りたいという風にはあまり思わなくなった。むしろ自分がそちら側と思っていた所で生きるようになったことでもう少し別の興味で知りたいと思うようになった。


まもなく定年を迎えるある人が、長年してきた職人としての仕事を嬉しそう続けていた。その仕事を続けることに人生を費やして来たわけだ。知識も経験も豊富でとても頼りになる方だった。少し口下手だったけれども仕事を丁寧に教えて頂いた。僕が何かしら失敗をした時は少しばかり厳しい口調で叱責されたけれどもそこには優しさを感じることが出来た。

同じように間もなく定年を迎えるある人も、その仕事に人生を捧げて来たのだろうけれども、休日前になると趣味の釣りの話をして、明日はあそこへ行くとか、今の季節は何が釣れるとか楽しそうに話してくれた。その人からも優しさがにじみ出ていた。

よく、人間は年を取ったら丸くなるものだなんていうけれども、この人たちはまさにそうであった。どんな世界を見て、感じてそうなったのだろうかと思った。もちろんその人の持って生まれた資質というのもあるだろうけれど、それだけではないように思った。きっと辛い経験もたくさんしてきただろうし、悲しい経験もたくさんしてきただろうと思う。もちろん嬉しいことも楽しいこともたくさんあったはず。そういう様々な経験を通して何かを積み重ねて来た結果が単純で申し訳ないけれど「優しさ」として僕には見えたのだと思った。そしてそれが人としての「丸さ」なのかもしれないと思った。


一方で、ある人は、何かと言うと「お金」の話というか「儲け」の話ばかりだった。直接的に言わないまでも、話していることはつまりそういうことだ。自分の人生で何かを成し遂げたいという思いが強く前に出過ぎている感じがした。あるいは今置かれている立場や状況に満足していない、もっと上に、もっと多く、もっと大きくという思いがあるのだろうと思う。それはそれでその人の人生のモチベーションになるだろうから否定はしない。むしろそういう人が社会を動かしているのだろうとさえ思う。

ただそういう人にはいくつかの種類があるように思った。一つは、孤高の存在になるために誰にも頼ることなく自分の思い描いている未来を実現しようとする人。もう一つは、誰かを踏み台にしてでも、誰に何を言われようともひたすら自分が成し遂げたいと思い描いている未来を実現しようとする人。もう一つは、自分の思い描いている未来を実現するために、同じ思いを分かち合える仲間を作って自分よりむしろそうして集まった仲間を押し上げていくことで結果として実現していこうとする人。


僕が牧師をしていた時はいつも三番目の意識を持っていた。キリスト教をこうしたいとか、教会をこうしたいという思いを同じレベルで分かち合うことが出来る人と集まって結果として自分の思いを実現したいと思っていた。ぶっちゃけて言うと、個人レベルでは共感を得られたとしても、結局は上手くいかなかった。牧師というのは個々の教会を任されていて、自分の思いを任された教会に反映させることばかりでいっぱいの人が多かったように思う。より大きな視点でキリスト教や教会を見ている人はそれほど多くはなかった。だから辞めたんだけど…。


今は自分の思い描いている未来を実現しようとするどのタイプにも当てはまらなくなった。今、目の前にある現実を喜びを持って受け入れ、楽しむことが大切だと思うようになった。きっと今の生き方を続けて行ったら、最初に書いた人たちのように「丸い」人間になれるんじゃないだろうかと思っている。逆に牧師を続けていたら、牧師であるにも関わらず不満やどうにもならない状況にトゲトゲした思いを抱え続けることになったかもしれない。そんなのはまっぴらごめんだ。


この世界は一つだ。だけど人それぞれに見え方がある。それが大きいか小さいかは問題ではない。どう関わるかも問題ではない。ただ自分が見ている世界、自分に見えている世界は、他の視点から見れば違って見えることを知っておくことは大切だと思う。幸せや喜びはそうした違った視点がたくさんあることを知って、自分が見ている世界、見えている世界を違った視点で見ることが出来るようになることで得られると思う。世界は一つだが違った見え方がある!幸せな視点、喜べる視点、平和で安心出来る視点がある。

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