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救いは信じる者に与えられる

「信じる者は救われる」と言われるけど、「何を信じるか?」ということは人それぞれで、「これを信じないと救われない!」なんてことはない。だから、「信じる対象」というのは限定的な何かを指しているわけではない。じゃぁ、「何かを信じていれば救いを得られるか?」というと、僕には分からない。でも僕は何かを信じていることで救われることはあると思う。

人は誰でも何かを信じてると思う。スピリチュアルな何かを信じていたり、非科学的なことを信じていたり、逆に、根拠がはっきりしていることしか信じないという人もいるだろうし、物質的、物理的なことしか信じないという人もいると思う。自分の中のバランスでそれぞれ信じてるものがあるということだってある。おそらくそうことの方が多いだろうと思う。

僕は、それが自分を救うかどうか分からないまま盲目的に信じるということは考えた方が良いと思う。たとえば、イエス・キリストが救い主として自分を救ったかどうか分からないまま、言い方を換えれば、イエス・キリストによって(福音によって)救われた!ということを受け取っていないのに、イエス・キリストは救い主だから、自分を救ってくれるはずだという風にして信じることは考えた方が良いと思う。

科学的根拠のあることでも、例えば、病気になった時に、医者の診断だったり処方される薬なんかも、医者の診断だから、医者が処方した薬だから病気が治る!と単純に信じることは考えた方が良いと思う。もちろん、自分で勝手にこれだ!と思うものよりははるかに信頼度は高いけれど、それでもある程度は自分で立ち止まって考えてみる必要はあると思う。

何かを信じていて、それによって救いを得たいと願う心は誰にでもあると思うけれど、自分が何を信じてるか、それが本当に自分を救うかどうか考えることもなく信じるということは考えた方が良いと思うし、逆に考えることもなくそれは自分を救い得ないと拒絶することも考えた方が良いと思う。

大切だと思うことは、それが本当に自分を救うかどうかしっかりと考えてみること、自分が救われたいと思っている事柄(何がどうなれば良いか)を自分自身がしっかりと把握していること。それについて盲目的になったり、手放しで、ただ信じているだけで救われるということはないということを理解していることが大切だと思う。「ただ信じていれば救われる」のではなくて、それこそが「自分を救う」ものだということを自分なりの筋道で良いから納得していることが大切だと思う。

だから「信じる」というのは科学的ではなくても、自分なりの筋道で納得して「信じる」ことが大切だと思う。もちろんそのために経験を積んだり、知識を得たり、労力を要することがあるだろうし、そのための時間が必要になる。それでも何かから自分を救うものを得られるなら惜しむものではないと思う。そこに生まれる力こそ本当の意味で「信じる」ということではないだろうか。そして、救いを得ようとして積んだ経験や知識や労力や時間が多ければ多いほど「救うもの」をより多く得られるのではないかと思う。

「信じる者は救われる」という言葉の裏側には「救いを得ようと信じて生きる者に与えられる」という意味があるように思う。





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