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神の言葉は役に立つ

以前書きましたが、神の言葉を直接聞いたことがあるという人はいませんし、神の言葉そのものを語ることが出来る人もいません。聖書も神の言葉としては間接的なものなのです。

時々、「聖書の言葉はその通りだった」というような経験をされた方が、SNSなどにその経験を投稿されているのを見ます。僕自身はそれはそれで良いことだと思っています。その人が「神の言葉を体験した」ということですからね!

言葉というのはインプットするだけでは役に立ちません。たとえば、難しい言葉を覚えていてもそれをアウトプット出来なければ、覚えていること自体はすごいと思いますけれども役に立っているかと言えばそうとは言えないでしょう。

聖書の言葉というのはそういう意味で言えば「役に立つ言葉」だということが出来ます。もっと言えば、「役に立ってはじめて意味がある言葉」だと言って良いかと思います。聖書の言葉を逐一覚えていても何の役にも立っていないのなら意味があるとは言えないと思うのです。

「役に立つ」とはどういうことか?

聖書の言葉が役に立ったというのはどういうことか?それは生活の中で起こる様々な出来事を受け取り、理解し、深めるのにそこで聖書の言葉が思い起こされたり、逆に聖書の言葉の理解が深まったりするということです。

ただし、僕自身はこう思っているのですけれども、無理やり聖書の言葉をどんなことにでも持ち出して、自分の解釈で使うということとは少し違うと思うのです。

どういうことかと言うと、聖書が求めている理解ではない仕方で聖書の言葉を用いる、あるいは当てはめるということです。聖書の言葉を自分の都合の良いように使うということとは違うということです。聖書の言葉は聖書の言葉が求めている仕方で用いられることが必要なのです。

実は、これはどんな言葉でも同じですよね!その言葉の持つ意味通りに使わないとおかしなことになりますよね。

聖書の言葉が求めている用い方とは?

実はこれがとても難しいのです。だから聖書の言葉をちゃんと理解していなければ聖書の言葉が求めている用い方は出来ないのです。その為に、聖書の言葉が役に立つようにするために礼拝であるとか、聖書の学び会などで聖書の言葉の理解を深める必要があるわけです。

でもですね、ぶっちゃけて言いますけどね、それをするのが誰かと言えば「牧師」なんですよ。じゃぁその牧師は聖書の言葉がみなさんの役に立つように、聖書の言葉が求めている用いられ方がどのようなものかをちゃんと伝えられているかと言うと…、あまり上手に出来ていないように思います。

自分のことを棚に上げといて言いますと、僕が教会で牧師をしていた16年の間、色々な所で色々な牧師のお話を聞きましたけれども、心に響いたこと、グッっと心を鷲づかみにされたこと、なるほど!と思わされたことは数えるほどしかありませんでした。ぶっちゃけ片手の指で数えられるほどです。

聖書の言葉が求めている用いられ方というのは、神学書に書かれてあるような内容を紹介するのとは違います。それは単なる解説の解説でしかありません。もちろん解説も大切ですけれども、もっと大切なのは、心に響くように、グッっと心を鷲づかみにするように、なるほど!と思ってもらえるように理解し伝えることです。

こんなことを言うとちっともアカデミックじゃないですよね。そうなんですよ!そもそもイエスさまは学のある人にではなくて、むしろ学のない人たちに神さまの言葉を伝えたのですから、アカデミックなんてもんじゃないんです。貧しい人、病める人、虐げられている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、そういう人たちが慰められ、励まされ、希望と勇気を持つことが出来るようにお話されたんです。

役に立つってそういうことです!聖書の言葉が求めていることってそういうことなのです!

おわり

みなさんは聖書の言葉によって励まされたり、慰められたり、希望や勇気を持つことが出来ているでしょうか?あるいは、誰かが元気になるように伝えているでしょうか。

僕はNOTEでは聖書の言葉をいわゆる「説教」のような形では語っていません。キリスト教を大まかに紹介しているだけです。でも、助けを必要としている人の救いの入り口になれば良いなと思っています。



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