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「躓き(つまずき)」

キリスト教には独特な言葉がたくさんあります。そういう言葉はキリスト者同士なら通じても、あまり一般的ではない故になかなか通じないのではないかと思います。その中でも「躓き」という言葉は相当難しい部類に入るのではないかと思います。それにも関わらず、おそらく使われる頻度が高いだろうと思います。

こういった言葉はちゃんと使われていないとなんとなく知っている人ならニュアンスが伝わっても、そうではない人たちに誤解を与える可能性があるように思います。というわけで今回は「躓き」について改めて考えてみたいと思います。

意味は?

そもそも「躓く」の意味は、「足が何かにひっかかって転びそうになる」です。すぐに「はっ!」としたのは「転んでしまった」ではなく「転びそうになる」という意味だというところです。

それぞれ自分の経験を思い出してみますとそうですよね。足をひっかけて転んでしまったら「転んだ」と言います。でも転ばなかったら「躓いた」と言います。

つまり「躓き」というのは「転びそうにはなったけど転んでいない」のです。まだ立っているのです。あるいは歩き続けているのです。

「躓く」というのは、歩くあるいは走るという動きの途中で起こるわけですけれども、それは一瞬のことであって歩く、走るという動きはその一瞬の出来事の後も続くのです。「転んで」しまったら動きが止まって別の出来事になってしまうわけです。

転ばない感覚

転んでしまった時は、起き上がるのに誰かの手助けが必要な時があります。僕は大きなバイクに乗っているのですが、もし転んでしまったら誰かの助けがあった方が良いなと思います。転んで腕や足を痛めてしまったらなおさらです。幸いまだ転んだことはありません。

転びそうになったことは何度もあります。バイクの場合は「躓いた」というのとは少し違うかもしれませんけれど、重心がギリギリの所まで傾いたり、後ろのタイヤが滑ってバランスを崩したりしたことは何度もあります。その度に、ここら辺が限界かも!というのを体で覚えます。自分の感覚だけではなくて、路面状況、道路の傾斜、気温など様々な状況から判断する必要もあります。

そうして自分が安全に運転出来る(制御出来る)感覚を身に着けていきます。少しずつ転びそうにならない範囲で安全に運転出来るようになっていきます。運転技術がスキルアップして安全運転も出来るようになるのです。

躓きのもと

イエスは「わたしに躓かない者は幸いだ」と言われました。他の所では「誰でもわたしに躓く」と言われました。ということは誰もがイエス・キリストとの出会いに躓くものだということでしょう。

躓くというのは何も無理をしたからというわけではないかもしれません。何気なく歩いていてちょっとした段差や小石にコツンと躓くこともあります。でも、きっと躓いた時というのは特別に安全確保に気をつけていていたというわけではないはずです。

イエスに躓くというのはイエス自身があなたの人生の歩みのちょっとした段差や小石のように躓くもとになるということです。

えっ⁉と思われるかもしれません。だってイエス・キリストは救い主であって、あなたを助ける存在のはずなのに、人生をよりスムーズに歩くための導き手になるはずなのに、それが躓きの段差、小石になるからです。

「躓かない者は幸い」

このイエスの言葉は、「山上の説教」の最初にある「幸い章句」と呼ばれるところと同じように聞くことが出来るかと思います。最初の一句は「心の貧しい者は幸いである」です。

「心の貧しい者」というのは、「心が狭い」というのとは違います。「小心者」とも違います。「神さまの恵みを求めている(貧欲に)」という意味です。神さまの業が自分に起こることを求める者のことです。

と考えると、「わたしに躓かない者は幸い」と言われているのは、「躓き」はネガティブなことではなくてむしろ「幸い」とされることだと言えます。なんで「躓き」が「幸い」なのか?それは、キリスト教が「復活」や「罪の赦し」を語ることとつながっています。

「復活」や「罪の赦し」ってすぐに理解できます?できませんよね。だから、だれでも躓くんです。でも、その躓きから「復活」や「赦し」を受け取る者に変えられて行くのですから「躓き」は決して悪いことではないのです。

おわり

もしキリスト教の教えていること語っていることに「躓き」を感じたとしてもそれは普通のことです。普通の人ならむしろ「躓く」ものだとさえ思います。でも、それはあなたが「転んだ」というのではなくて、まだ「立っている」むしろ前に向かっていることとして捕らえてみてはいかがでしょうか。






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