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地方創生Coach Note【復興へ向けての振り返り⑤「本当のファシリテーションとは?」】

【政官民が同じテーブルに着き、同じ未来目的を描く。その時間と仕組みを持つことが挙げられると思います。また、こうしたコーディネーターやファシリテーターには、利害のバイアスがかからないように、自治体の部署ではなく、首長自身や議会といった民意とつながる方々が契約をして、報酬を支払うことが望ましいと考えます】
 
かくして前回は「復興」という言葉を定義する為に、住民が主役となったフラットな対話が必要であることをお話ししました。
 
しかし一方で残念なことに日本では、親子に始まり教師と生徒、上司と部下という縦関係の教育しか行われず、そこでは対話とは呼べない情報交換ばかりが使われています
 
ですので、行政サイドが住民と対話をするといっているほとんどのケースが対話と呼べないもの。上からの説得、強要、押し付けと言ったものになってしまっていることは、誰しも心当たりのあるところでしょう。
 
では、オープンな住民対話とは、どのような形で行われるのでしょうか?

☆それ、ファシリテーションじゃないですよ

国内で対話と呼ばれる会で起こる事象に

「全体の場の雰囲気に流される」
「声の大きな人のお気持ちワンマンショー」
「腑に落ちていないのに発言機会が与えられない」

といった事例がよくあがってきます。これはとにかく「まとめて、終わらせたい」という進行側の心理バイアスによって生じるものです。
 
そして、こうした進行でそれっぽい結論や合意に達したとしても、参加者にとっては共感や納得感と言った感情レベルでのコミットメントが形成されていないことになります。その結果、総論として賛成ではあるが、主体的に動く状況にはないという状態が形成されます。
  
こうした対話手法はファシリテーションとは呼びません
 
本来は「モデレーション」と呼ばれる手法であり、その手法の中でもうまくいかなかったケースでよくみられる【失敗事例】ということになります。
 
そもそもで、ここ間違えている人達がとても多いんですね。順番に発表をさせたり、付箋を貼らせる作業をするのがファシリ・・であるわけもないのです。

☆本来のファシリテーション

本来のファシリテーションでは議題やそのコンテンツ以上に、参加メンバー達による【場の質】にフォーカスします。メンバー達相互の関係性を高め、その中で新たな理解、新たな関係性、新たな意図といった事柄を生み出すことを目指すわけです。メンバー達の主体的な参加と相互の共感、納得感といった状態が整うからこそ行動へのコミットメントが生まれ、その行動そのものにも変容が生まれるということです。
 
昨年参加したあるミーティングで、メンバーの中でも当事者とも言える参加者がその進行、問いかけ、手法に違和感を感じ、メンバーがその違和感に向き合っていたシーンがありました。しかし、進行サイドのサポーターがその参加者に対し

「考えてないで手を動かせ」
「ここだけ遅い(迷惑)」

と作業を強要し、参加者の違和感を無視したシーンがありました。これこそ、まさにファシリテーターとしてやってはいけない典型的パターンです。

そのサポーターは「このデスクだけ違うことをやっている」とも言っていましたが、僕からすれば「このデスクだけまともだっただけ。本当に、彼らのような輩にファシリテーターとか名乗ってほしくないな・と心底感じた瞬間でした。
 
MIT名誉教授のエドガー・シャインはファシリテーションにおいては、第三者の力を必要とするという前提を示しつつ、そのうえでこの第三者は

器、鎮められた状況、文化の島

を作り出すプロセスを有することに触れています。そのうえで僕が様々なファシリテーション手法においてアダム・カヘンの方向性を愛するのは、このプロセスにおいて、

「ファシリテーターがパートナーとしてオープンな関係と信頼性を築くこと。そして、その信頼性を築き上げる為の環境を提供すること」
 
という大原則にとても共感し、理解者たろうとしているからです。
そのうえで、共に進む為に

何かを与えようとするのではなく、行動を阻む障害を取り除く
 
という前提、マインドセットも僕自身の Philosophy(哲学)が合うからでもあります。
 
というわけで、切りのよいところで今日はここまでで。
次回はこのアダム・カヘンのファシリテーション。
その基本と実際の活用に関してまとめてみたいと思います。
 
では!


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