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おれはニワカだ。

観劇ファンなら誰でも聞いたことがあるだろうことば

舞台はナマモノ。


これは芝居に限らない。プロレス界隈でも言う。興行というものは、いずれもナマモノである。目にする俳優の表情や息遣いは、その時だけ、そこに存在している。だから、いつも

一期一会

茶道発祥のことばを思い出す。目の前にある舞台は、始まりであり、終わりであり、永遠であり、そして刹那。最初で最後だ。二度と出会えない。「またいつかやるだろう。また今度、観る機会があるだろう」そう思うときに限って、その機会が二度と巡ってこないときがある。コロナ禍以降の最近は、とくにそう思うようになった。だから、そういう後悔はあまりしたくない。あとで後悔をしたところで、こればかりはどうにもならない。目に焼き付けておきたいと思うものに関しては、できる限り観ておきたい。

意思と意志

舞台に立つ役者は、それぞれ様々な背景を持って、そこにいる。その背景のすべては知りようがない。それでも客席から見ているだけでも、ある程度は見えてくる。彼らも人間で、どれほどその“仕事”に徹していようとも、やはり見えてくるものはある。意思を持った人間が、意思を持った役を演じる。そこには必ず、その人にしかない意志がある。たとえ、端役であろうと。

ニワカ

私はニワカ(ファン)である。いつまでたってもニワカ(俄)だ。

司馬遼太郎さんの小説で「」(浪華游侠伝)という作品がある。主人公の明石家万吉は幕末から明治の激動の時代を生き抜いた大坂の侠客。不思議な魅力にあふれた人物として描かれている。その男のスタンスが

おれはニワカだ。


ニワカという言葉にはあまり良いイメージがない。意味を調べてみると「突然」「急に」「かりそめ」よく知られているのはその辺りだと思う。
そして、もう一つが「俄狂言」素人の寸劇のことをいう。一度だけ、東大阪を拠点にしていた一座の「俄」を見たことがある。本当にズブの素人芸が繰り広げられていた。あえて笑いを誘うためにそういう演出をしているとはいえ、その昔に流行った頃はもう少し上手かったのではないかと思う。寄席でやっていたこともあったそうな。

小説のなかで万吉がいう俄とは、おそらく「俄狂言」の意味合いが強い。「おれは、まだ半人前なんだ」そういう意識を持っている。何を成し遂げても「どうだ、してやったり」なんていう顔を万吉はしない。「これは俄だ」「おれ自身が俄なのだ」作中での万吉はいつもそういうスタンスを貫いていた。

明石家万吉は実在した人物だが、小説の人物像は、もちろん司馬さんの創作である。にも関わらず、妙にいきいきとしている。気になって実際に大阪の中之島図書館で、明石家万吉(小林佐兵衛翁)の自伝を読んでみたことがある。自伝は、幼少期の生家の場面から始まる。佐兵衛翁が語っているものを舎弟である著者がまとめたもので、司馬さんがその自伝をほとんど大きな改変もせず、小説化したのだということが分かった。

どおりで、万吉の声が聴こえてくる。そういう錯覚を覚えるほど「おれは俄だ」というセリフには力があった。そのセリフを言い放つ万吉に憧れて以来、私自身も俄ということばを自分のなかに持っている。

夢と現実

現実が分からなくなること。それは、どういう状態だろうか。私自身、何度もある。精神的に追い詰められて現実逃避をしたとき。あとは娯楽を楽しんでいるとき。音楽を聴いたり、映画を観たり、小説を読んだり、芝居や舞台を観たりする、その没入感のなかにあるとき。

しばしば、夢は現実に影響を及ぼす。現実もまた、夢に影響を与える。それは、ゲームをしているときだってそうだろう。そうして、いつも気づかないうちに夢と現実の境は揺らいでいる。

ゲームやネット上の世界は仮想現実とも呼ばれる。仮想現実は、現実であって現実ではない。けれども、その境目がハッキリとはしなくなる瞬間がある。それは人間が正常な判断能力を失ったときだ。正常な判断が下せないとき。それは心と体が離れていった結果、至る状況。意識が現実から遠くかけ離れて、肉体がその魂を引き留められなくなったとき。

我々は現実世界で生きている。けれども、今やこうして仮想現実でも生きている。いまの時代はTwitterやYouTubeにInstagram…etc.それらがなかったら人類は生きていけない。

では、何のために仮想現実は存在するのだろうか。現実から逃れるため?そのために仮想現実は創られたのだろうか。本当にそれだけだろうか。仮想現実が創られた本来の意図は、この現実世界を、社会を、客観的に見つめるためではないのか。

芝居のなかに遺された真実

目の前で、ありとあらゆるニュースが安物のハリボテのように組まれた途端、見るも無惨に壊れてゆく。私は一体なにを見ているだろうか、聞いているのだろうか。もはや自分の目も耳も信じられない。これは夢なのか、現実なのだろう。メディアというものは、いつからこれほどまでに実のない虚構を書くようになったのだろうか。

かつて江戸時代に歌舞伎や文楽の芝居がメディアの役割を果たしていたことがある。近松門左衛門らが短期間で戯曲化した心中物、それはキワモノ(際物)と呼ばれた。しかし、このキワモノはただのキワモノではなかった。たしかな取材を基に、そこには愛と真実がきちんと描かれている。見え透いたゴシップ記事のような脚色を施す現代メディアよりも、よっぽど真実を語っている。伝統芸能のなかには、先人が守ってきた真実がある。それは心だ。おのれ自身の目で見てみるがいい。私たちの先人が、語り継いできた心を。

立ち上がるとき

限界を超えてしまうことがある。それは経験がある人なら、分かると思う。「まだ大丈夫だ。慣れてきたら、これぐらいは耐えられる」人間は、そうやって自分を鼓舞して頑張るときがある。けれども、そのキャパシティーには個人差がある。体が悲鳴を上げていても無理を重ねると、気がついた時には、強制終了する。そうやって大病を患う人もいれば、精神を病む人もいる。そして、一旦、壊れてしまうと立ち上がるまでにかなりの時間を要する。そういう経験が私自身にもある。そんな時に思い出した言葉がある。

「立ち上がる時は、自分の足で立ち上がらないといけない」

「夜回り先生」(著者:水谷修氏)本のなかで、先生自身が語ったことばだったと思う。人が弱っている時に、手を差し伸べることは大事なことで、本当につらいときには誰かの助けがいる。手助けしてやることは必要だけれど、立ち上がる時は、その人自身の足で、立ち上がらなければならない。立ち上がる時に手を貸してはならないのだと。そうでないと今度、転んだとき、一人では立ち上がれなくなってしまう。誰かの手助けなしには、立ち上がれない人間になってしまう。最終的に、立ち上がるかどうか、それを決めるのは本人の意志だ。

自分を強く持て。

我々は、油断してはいけない。そうでないと、あっという間に夢に喰われてしまうか、現実世界に殺されてしまうだろう。だから、自分自身を強く持たないとならない。自分を強く持っていないと、瞬く間に正常な判断能力は失われる。

現実も仮想現実も混ざりきったこの世界で、正気を保つのは至難の業だ。他人から又聞きしただけのウワサ話さえ、真実のように語られる。事実がどこまで事実なのか、そんなことは当人以外の誰にも分かるわけがない。何の確証もないニュースの見出しを鵜のみして暴言を放つ者たちは、飽きもせずに虚構を愛撫する。

明日は我が身

忘れてはいけない。「すべては他人事だと。俺はそんな真似はしないと」そんなことはあり得ない。人間は誰しも一歩、足を踏み外せあっという間に転がり落ちる。目の前で起こっていることは、他人事ではないのだ。災難が自分の身に降りかかるもう一つの未来線を想像する力を失ったら、私たちは現実を見る力も、夢見る力も失うだろう。

Everybody Wants To Rule The World

最後に、最近久しぶりに聴いたティアーズ・フォー・フィアーズ (Tears for Fears)の名曲をご紹介。

Everybody Wants To Rule The World (誰もが世界を支配したがっている)

夏っぽい爽やかな曲調ですが、歌詞の意味は深い。

One headline – why believe it? (たった一行の見出しを なぜ信じられる?)







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