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此処

 モンゴルの朝は早い。酒を飲んだ翌日のような、喉の奥のわずかな乾燥で目を覚まして、僕はヒーターを弱にする。頬が持ち上げられるようにほてっていて、ベッドサイドのテーブルにある水差しを傾けてコップを満たしたぬるい水を確かめるように口に含んだ。カラカラの口内にもたらされた水はぬるいけれどそれも心地良い。
 コップをテーブルに置いて、椅子にかけられたセーターを着込む。それから流れるようにやかんに水を入れ火にかける。棚の上の段からコーヒーの缶を、下の引き出しからフィルターを取り出し、粉をフィルターの三分目までスプーンで入れたら、テーブルに置いたコップを再び手に取り、僕はゲルの扉を開ける。この瞬間が好きだ。朝の冷たい空気が頬を冷やして、眼前にはどこまでも続く緑と、少しずつ薄い水色になり始めた牛乳を流したように白い空。
 毎朝、空と地面の境をなぞるように目で追いながら、僕はこの世界に初めて生まれた子どものように息を呑む。それから手の中で少しずつ冷えていく水を一口飲んで、大きく息を吸い込む。やかんの鳴る音が聞こえる。コーヒーを淹れるまでのこの時間が、たまらなく好きだ。
 と、目が覚める。年のせいか、最近昔の夢ばかり見るようになった。ふと目をやるとこたつの向かいでは、もうじき三歳になる孫も眠っていた。もう旅には行けないな、と思う。もう行かなくてもいいな、とも思う。僕は暖房を二度下げた。

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