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大東亜戦争劈頭に活躍した情報戦士①吉川猛夫

大東亜戦争の口火を切った真珠湾作戦とマレー作戦。
両作戦の成功の背景には、情報将校たちの血の滲むような努力の末のインテリジェンス活動があった。

真珠湾攻撃を成功に導くべく、帝国海軍がハワイに放ったスパイが海軍少尉の吉川猛夫である。

正確を極めた米艦隊情報

日米開戦となれば、その主戦場は広大な太平洋上となる。真珠湾基地から出撃する米太平洋艦隊の動向と実力は、帝国海軍のもっとも注視するところであった。帝国海軍は真珠湾基地の地勢と太平洋艦隊の動きを探るべく、当時軍令部勤務だった吉川猛夫少尉を現地に派遣して調査活動にあたらせた。

吉川がホノルル総領事職員としてハワイに赴任したときの名前は“森村正”。表向きは外交官でも、本任務は真珠湾基地の実態を探る情報部員である。ちなみに「森村正」という名は、英語での発音のしにくさと覚えにくさから付けられたものだった。

調査対象はハワイの天候や気象条件、現地の風俗・習慣から、真珠湾基地のあるオアフ島の地形、軍港、陸海軍航空基地の様子まで多岐にわたった。なかでも戦艦の種や数、艦隊行動、米海軍の演練場所とその時期に関する軍事機密情報はハワイ作戦の成否を左右するといってよく、吉川が命に代えてでも入手しなければならない情報であった。

吉川猛夫こと森村書記官は、主な密偵場所として日本人客になじみのある料亭「春潮楼」を活用。毎日のように芸者を侍らせて酒に女に興じながら、洋上に浮かぶ米戦艦の動向に目を光らせた。料亭狂いの酔客を演じたかと思えばフィリピン人観光客になりすまし、サトウキビ畑に裸足で潜入、傷だらけになりながらも軍港に肉薄して艦隊動静の掌握に努める。

これら地を這うような泥臭い実地調査と、危険を顧みない大胆不敵な行動によって、米太平洋艦隊の全貌が明らかになってゆく。日米交渉行き詰まり、開戦やむなしと判断された昭和16年9月以降、海軍の求める敵情も詳細を極め、ホノルル総領事館から打電される森村書記官の電報の数も急激に増えていった。

「オアフ島の北側は曇天多し。北側より接敵し、ヌアヌパリを通り、急降下爆撃可能なり」「米国艦隊がもっとも頻繁に停泊する日時は日曜日である」「艦隊は、ハワイの南西方面で約一週間の洋上訓練を行う」など、いずれも確度の高い情報をもたらし、真珠湾攻撃作戦の行動プランに大いに生かされることになる。

12月6日、森村書記官から東京に送られた最後の電報は、「真珠湾に在伯するは戦艦9隻、軽巡3隻、駆逐艦17隻、潜水母艦3隻、空母2隻と重順10隻は6日午後出港せり」という内容で、開戦の6時間前に報告。その情報はただちにハワイに向かって南下中の機動部隊に打電された。空襲部隊が真珠湾上空に殺到すると、森村書記官の伝えた内容通りの情景が広がっていた。

森村書記官こと吉川猛夫少尉は、ハワイ奇襲と同時にFBIに逮捕された。収容所に抑留されるも証拠不十分で釈放、強制退去というかたちで帰国する。その後は軍令部に復帰し情報課部員として再びインテリジェンス活動に従事することになる。戦後『東の雨、風』を発表、「真珠湾のスパイ」であった事実を告白し、日本海軍のハワイにおけるスパイ活動を白日の下にさらして話題となった。

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