見出し画像

廃藩置県。これほどの大改革があっさり成功した理由とは

1867年(慶応3年)、徳川慶喜が政権を朝廷に返上。この「大政奉還」で260年続いた徳川政権の時代は幕を閉じる。翌年の1868年に元号が明治と改められ、明治維新がスタートした。

徳川政権は滅んでも、武士を頂点とする支配体制は生き残った。1869年(明治2年)に領地と領民を朝廷に返上する「版籍奉還」が行われるも、藩主が領主として治まる統治形態は変わらず、軍事と徴税の権限は武士が掌握した。版籍奉還は形式的な改革に過ぎなかったのである。

有名無実だった改革を実質的に断行したのが1871年(明治4年)の廃藩置県である。藩を廃し県を置く制度により、源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てて以来600年以上続いた封建体制は解体された。

このとてもつもない改革は予想に反して大きな反乱や暴発を招かなかった。中央集権国家の確立に向けた手続きは粛々と行われたのである。これほどの国家的大事業なのに、ろくな準備も根回しも行われず、わずか数日のうちに決断され、実行に移された。廃藩置県の準備を水面下で推し進めてきたのは木戸や大久保、西郷ら一部の有力者たちで、岩倉具視には決行の二日前に知らせが入った。藩主たちには何も知らされず、いきなり皇居に呼び出されて一方的に廃藩置県が宣言された。このような乱暴かつ強行なやり方で成功したのだから、快挙というより奇蹟に近い。

廃藩置県の一報が藩主や武士たちに衝撃を与えたのは言うまでもないが、日本滞在中のお雇い外国人や外交官たちもこれには驚愕したようで、彼らが残した日記や書簡、伝記などからその時のインパクトと心境がどのようなものだったかを知ることができる。

イギリス大使館の書記官だったアーネスト・サトウは日記に「たいへんな変革が行われた」と綴っている。福井藩の藩校教授として雇われていたアメリカ人のウィリアム・エリオット・グリフィスは、福井にいて廃藩置県の急報を聞いたときの心境をこう記している。「まさに晴天の霹靂! 政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした」

グリフィスの日記によると、失業することに憤慨した武士もいれば、「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」と意気揚々に語った武士もいたという。廃藩置県は福井県の人々に肯定的に受け入れられていった。

参議の木戸孝允は廃藩置県のセレモニーで感激のあまり涙を流したといい、大久保利通も日記に「とくと熟考今日のままにして瓦解せんよりはむしろ大英断に出て瓦解いたしたらん」(いらずらに熟考するばかりでまとまらず空中分解するよりは、いっそのこと廃藩という大英断に踏み切って瓦解する道を選ぶ)と、廃藩置県への強い覚悟のほどを語っている。福沢諭吉も「一身にして二世を経るがごとし」(まるで一生に二つの人生を生きる思いだ)と述べ、「もうこれで死んでもよい」と友人に書き送るほど感激したエピソードが伝わっている。

廃藩置県の詔書(天皇の意思表示が綴られた公文書)に「何をもって億兆を保安し万国と対峙するを得んや、朕深くこれを慨す、よって今更に藩を廃し県となす」とあるように、廃藩置県の意義と目的は欧米列強と渡り合うための中央集権国家の樹立にあった。すべての地域とすべての国民が一つにまとまって同じ国家目標へと突き進むには、旧大名や旧旗本らが実質支配する藩体制を打破し、行政権や軍事権、徴税権を政府に集中させる強い国家づくりが急務だったのだ。

政府は廃藩置県の決行にあたり、諸藩が反乱を起こせば武力行使も辞さない構えでいた。予想された武士の蜂起が起きなかったのはなぜか。通説では「政府による俸禄の保証と債務の引き継ぎ」「藩主への特権付与・優遇策(華族身分の保証など)」「農民救済策」などがその理由として挙げられる。もちろんこれらの補償や救済が影響した側面は大きいに違いない。それと、これは個人的な見解だけど、以下のような理由もあったのではないかと考える。

基本的に武士は「無私」を生き方の美学とする人たちだった。徳川幕府260年の治世は、忠義を至高とし名誉を重んじる精神がたたき込まれた時代と言っていい。他人を顧みない自分本位の私益や利得(とくにお金に関係すること)とは距離を置きたい考えは骨の髄まで徹底していた。欧米列強の脅威に対抗すべく国家が一丸となって国造りに邁進せねばならないときに、自分たちの利益につながることばかりを訴えて反抗するのは、美しくない。そこに「大義」はないと考える武士が多数派だったとしてもおかしくない。

国家が旧弊の体制のまま停滞して欧米列強に侵略される「恐怖」もあったと推察する。学も情報もある武士たちはアジアの国々が欧米諸国によってどれだけひどい目に遭わされているかを熟知していた。技術も産業も学問も何もかも遅れている日本が欧米に太刀打ちできないのは当たり前で、このままでは支配を受け入れる屈辱の未来が待っている。誇り高い日本の武士たちにとって隷属は死に他ならない。死を前にして自分たちの身分や仕事がどうのと言っていられないはずだ。

何よりもこの時代、日本人は同じ問題意識を共有して同じ国家目標を共有していた。藩や利害を超えて一致団結できる核のようなものがあった。欧米列強に負けない近代国家に生まれ変わるという目標は、当時多くの日本人が首肯する「大義」だったのではないか。

同じ問題意識・同じ目標を共有していれば立場や利害を超えて一致団結できる。これは今の時代にも言えることだし、重要なことだと思うが、私たちの足並みがなかなかそろわないのは「無私」や「恐怖」が足りないせいだろうか。重要なことを当たり前に進めていくのに必要なのは「良識」であり、心身を削るほどの「無私」や、血を見るような「恐怖」ではない。「恐怖」がなければ重要なことを当たり前に進められないのだとしたら、近代民主主義国家として失格である。ちなみにこの場合の良識ある人とは、公益とは何かを的確に判断し、立場や利害の一致、思想の違いよりもこれを優先できる人のことを言う。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?