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福沢諭吉『学問のすゝめ』に見る「伝える」ことの大切さと「変わる」ことの難しさ

福沢諭吉が明治初期に発表した『学問のすゝめ』。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」

の書き出しで有名な書物ですね。

ほかにも、「一身独立して一国独立す」「この人民にして、この政治あり」「信の世界に偽物多く、疑の世界に真理多し」などの格言や警句、印象的なフレーズがちりばめられていて、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれる良書です。

福沢諭吉はこの『学問のすゝめ』で広く庶民が学問を修めることの大切さを訴えています。民衆啓蒙の本と言って良いでしょう。

国民一人ひとりが賢くなれば、政府もむちゃくちゃな政策はできなくなるし、きちんと民のほうを向いた正しい政治を自然と行うようになる。ひいてはこれが国力の増強につながり、他国の侵略を防ぐ防波堤となる。

『学問のすゝめ』を書いた福沢諭吉の目的は、日本人の「意識革命」にありました。政治のことはすべてお上に任せればよい、という時代は終わった、これからの政治の主役は国民である、と。国民が主役のつもりで国家の運営について考えてこそ、近代国家が完成する。そしてその国民の意識を醸成するための手段となるのが学問、ということです。

福沢諭吉が目指した日本人の意識改革。そのためにはまずたくさんの国民にこの書を読んでもらわなければなりません。大事なメッセージを伝えていかなければなりません。そこで福沢は「わかりやすく読みやすい文章」を重視したといいます。百姓から車夫人夫、商家の小僧、下男下女に至るまで、無教育で本もろくに読んだことのない庶民でもわかりやすく、理解できるような文章を目指したのです。

福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書くにあたり、教育の行き届いていない庶民にも理解できるような文章にするにはどのような工夫が必要か、この点に大変な苦労を払ったということが、講談社文庫『学問のすゝめ』(福沢諭吉・校注伊藤正雄)解説に書かれています。

福沢諭吉にとって「わかりやすく読みやすい文章」を書くことは、無学の庶民にメッセージを伝えるための橋をかける作業だったのですね。

福沢の創意工夫があってこそ、『学問のすゝめ』に込められた精神がたくさんの人に届き、国民意識を変える一助になったといってよいでしょう。

解説によると、『学問のすゝめ』はその後自由民権運動への影響を怖れた政府が目の敵にしたことで、教育の現場から排除され、国民から引き離されるようになったとのことです。明治後半に表舞台から姿を消した『学問のすゝめ』は、敗戦後の体制変化によって息を吹き返し、戦後日本人の間でふたたびその進取に富んだ精神とユーモアセンスあふれる文章表現に光が当たるようになりました。福沢諭吉のメッセージは時代を超えて今も多くの日本人に届いています。

ここで、一つ疑問が浮かびます。

『学問のすゝめ』は、福沢諭吉の苦心と苦労と工夫もあり、多くの国民に届けることができた。国民的ベストセラーになるほど社会現象を生んだ。この名書は明治にとどまらず時代を超えて今も読み継がれている。150年かけてたくさんの日本国民の手に届きその精神が伝えられたということは、福沢諭吉の目指す「日本人の意識改革」は、成功したと捉えてよいのでしょうか?

それを確かめるには『学問のすゝめ』のなかで福沢諭吉が書いていたことと、現代日本人のおおまかな特徴と傾向を照らし合わせて考えてみるのがもっともわかりやすいでしょう。福沢諭吉の警鐘に日本人が伝統的民族的に抱える欠点や弱点を対応させ、「むかしの日本や日本人にはそんな問題があったんだね~」になるか、「やば、これ予言の書?ぜんぜん今の日本人のこと言ってるし」になるか。

おそらく、誰が読んでも圧倒的に後者になると思うのです。

「国民が主体となって政治を動かしているか」と言われれば「ノー」、「官尊民卑は克服できたか」と言われれば「ノー」、「政治や社会の問題を政治家だけのせいにせず自分たちの問題として捉えているか」と言われれば「ノー」、「感情や表層的なことに流されず、学問の裏付けある科学的合理的な議論や判断ができているか」と言われれば「ノー」「何でもかんでも欧米の真似をすればいいと思ってないか」といわれれば「イエス」……。

『学問のすゝめ』という素晴らしい本が世に送り出されても、日本人は変われなかった(泣)

でもよく考えれば、それも当たり前なのかもしれません。

本質的な問題って、たかがベストセラー本程度の影響で変わるものじゃないですから。

いくら発信する側がわかりやすい言葉の工夫をこらして発信し、届けたい人に届けられても、そこから理解と行動に結びつくかどうかは受け取る側の問題。有名な学者の本を読んで賢くなったなあ~で終わる人もいっぱいいるでしょう。その知識を意識の深いところまで自分のものにして実際の行動に反映させるのってまあ大変じゃないですか? 人間、よほどの動機がないければ行動を変えるなんてことはしません。それをしないことでよほどの不利や不都合、損害でも起こらない限り。

まして、みんなが意識を変えて行動を開始し、その動きが社会全体に波及するなんて、言うほど簡単ではないという話です。

さらに、これは何百年も続いた封建社会によって形成された民族意識と、それによってもたらされるさまざまな問題を解決するという話ですからね。100年単位かかったとしても何ら不思議はありません。

難易度のレベルをわかりやすく表すと、

発信側:
発信する<<<伝える<<<理解させる
受信側:
理解する<<<<<<行動する<<<<<<<<<<<<<<<<<変わる

理解と行動の間はまだまだ距離があり、行動と変化の間は途方もなく隔たっている。まさに残酷な真実。

『学問のすゝめ』に書かれてある警句は現代にも通用しますし、時代を超える良書なのは間違いないのですが、でもそれは裏を返せば日本人と日本社会は明治時代から成長できていないことを表してもいます。

『学問のすゝめ』なんてもう古い、ここから学ぶことなどない、となってはじめて日本人は近代人になれたと評価できるのでしょう。

変化や成長はもちろん大切です。いつの時代もそこへ向けて目指す姿勢もなければなりません。ただそれは簡単に解決するものじゃなく、途方もなく長い道のりが待っているとの認識も必要ではないでしょうか。その認識もなく、腰を据えて取り組む覚悟もないから簡単に絶望し、あきらめてしまうのでしょう。何もしないでいたら堕落と衰退があるのは当然です。


























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