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村上春樹もまた文化的雪かきから逃れられないのか。

現在9時15分。
丁度、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、巡礼の年」を読み終えたところだ。丸一晩寝ずに読み進めたのも、目の前の語学試験から逃げるためであろう。村上春樹は現実逃避の場として、いつも大事な時に目の前に現れる。

読み返すのは実に6年ぶりほどであろうか。(当時はまだ高校生だった。)
以前、自分をハルキストではないが、彼の作品を読破するほどには熱心に追っかけていると話した。特に、「風の歌を聴け」、「ダンス・ダンス・ダンス」「アフターダーク」は気に入っている作品たちで、程よく読み返すことが多い。処女作に関しては、もう30回ほどは読んでいると思う。

6年の年月は、22歳の自分にとって大きな時間だった。こと自分に関しては、結果的にではあるが普遍的な学生生活を送らなかった、いや送ることを選ばなかった。その分様々な特殊な経験をさせていただいたし、物事の角度をたくさん吸収した。当然、彼の作品一つとっても昔と今では大きく見方は変わっている。

彼はノーベル賞から年々遠のいているのではないだろうか。
今朝にかけて読んだこの本は2013年に刊行されており、今からもう10年も昔である。毎年のように、今年こそは、、、とハルキストたちが願っているのは承知であるが、私は率直に申し上げると魅力が少しずつ消えていると感じた。それを人は丸くなったと言うだろうか、或いは洗練されたというだろう。

私は、彼の時間と体験が反比例しているのではないかと想像する。ご存知だろうか、彼の著書は様々な形式はあるものの、150作品近くある。「風の歌を聴け」が刊行されてから、45年近くのキャリアを歩まれていることになるが、些か多すぎる量である。勿論、高度資本主義経済の中では出版社は彼を急かし、ファン待望と名打って出る。彼はそれをどう思っているのだろうか。あの明確な反資本主義である村上春樹もまた、その社会の前では無力に押しつぶされているのか、或いはそれすらも彼は逆説に捉えるのかもしれない。

限られた時間の中で、いかに効率的に動けるかが経験の量を増やせるだろうというロジカルシンキング的なビジネスパーソンは多いが、こと創作においてそれは全くの無価値だと信じている。表現は、経験の量ではなく視界から脳神経を伝って蓄積されている意識の塊を何度も反芻していく結果、生み出されたものだと考えるが、彼は十分なインスピレーションを受ける瞬間とそこからの反芻を昔のようにできているのだろうか。

既に御年74歳であられる。
一読者として、私は彼に反資本主義的な集大成を書いてほしいと願っている、———大きな皮肉を込めた、彼特有のユーモアで———彼が昔「文化的雪かき」と表現したように。

「穴を埋める為の文章を提供してるだけのことです。何でもいいんです。文字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているのです。雪かきと同じです。文化的雪かき。」

村上春樹 「ダンス・ダンス・ダンス」より

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