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曲線(Curve)と宮崎駿の間に在るモノ

現在13時32分。
私はこれをパリ行きの飛行機で書いている。韓国に一泊し、イギリスで知り合った友人と会った。今朝、ソウルではいくらか雪が降り、積雪している。その影響でこのフライトは既に3時間遅れている。パリで待っていてくれている恋人に申し訳ない。
 
私は曲線か直線かで言えば、曲線が好きである。これは自己の中で完結するものではない。例えば、自分の恋人が直線の方が好きな人であるとして、私はそれに耐えられるであろうか。これは一見、些細でくだらなく、器の小さい問題のようにも見える。しかしながら、「分類」という観点から見ると、今日世界には直線か曲線かの2つの種類しかなく、それらは真逆のものである。実際これは私にとって大きな問題である。例えば、あなたがクリムトが好きだとして、バンクシーが好きな人は直感的に恋人の対象になりうるだろうか、という問題である。これはその物自体に原因があるわけではなく、根本的な物の捉え方、ないしは自分の価値観の問題なのだ。
 
実際のところ、曲線と直線はどちらかがその一方を包含している。つまり、曲線は直線の集まりという風に捉えるか、直線は曲線の内の一点にすぎないかということだ。後者は比較的想像が付きやすい。曲線という集合の中に直線を定義づけ、合致したものが直線となる。対して、直線の集まりとして捉えるとどうか。否、それは曲線というには無骨すぎる。なぜなら、曲線とはそのしなやかさあってこそ存在が許されるからだ。偶発的、人工的に関わらず彼らは唯一性を保ったまま存在が許される。無論、直線にも無数の美を作り出すことは可能だ。隈研吾はその代表例だろう。彼の地獄組は、これ以上無い頑強な組み方として機能性を発揮しつつ、まとまりとしても美しく落ち着いている。しかしながら、直線は唯一性を持つことが許されない。彼らはどこを切り取っても、直線という一限的定義の範疇を抜け出すことができず、その点に限界がある。
 
多元的な視点を持つことが出来るのもまた曲線の優美さだ。平面的であっても、立体的であっても見る者の視点によって、それは姿を変え特異な印象を与える。そして私たちもまたこれを保有している。人間の体は全て曲線で構成されており、一部位にしても正面から見る姿を横から見る姿は異なってくる。だからこそ、その多元的視点を一度に表現しなければならない石膏像は精緻な技術の集合なのだ。
 
ここまで書いて、あることに気が付く。曲線が好きというのは、それ通りには存在しないのだ。彼らの唯一性は言わば個性である。それが自然の成り行きでできた曲線ならば、偶発的真贋美を内在しており、かたや意図的に描かれた曲線ならば、機能的な美しさか著者本人の個性を宿している。

思えば、宮崎駿というのは曲線の使い手だったように思えるし、実際に彼も曲線美がどこから来るのかという描写を「風立ちぬ」で表現している。主人公の堀越二郎は、自他共に認めるほど美しい曲線を描く。そして彼はそのインスピレーションを限られた日常から発見している。多忙な生活の中、彼は鯖の骨から曲線を得ていた。宮崎駿が魚の骨をただ骨として捉えていたのであれば、風立ちぬは生まれていないだろう。彼もまた、曲線を個性として捉えていたのかもしれない。そしてその小さな個性は、主人公を通して咀嚼され、彼の中で再解釈され、飛行機の設計へ反映されるのだ。ここでもやはり、彼の意味するところでは総合的な曲線ではなく、あくまで鯖の持つ曲線である。
 
そして私もやはり、別の形ではあるが曲線を常に追い続けている。これは話すと長くなるため控えるが、締めとして今年見つけた曲線で最も気に入っているものを載せておく。

Magnus Modus by Joseph Walsh in National Gallery of Ireland
Church of God the Merciful Father by Richard Meier

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