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あなたは豪華な包装紙に包まれた中身のない人間になっていませんか?

SNSが誰でも影響力を持つことができる世界を作った。

YouTuberや、X(Twitter)・Instagram上で活躍するインフルエンサーを筆頭に、テレビやラジオなどのある種古いメディアに露出していなくともそれ以上の支持を集めることが可能になったことを示したのだ。

もう自分のSNSアカウントを持っていない人というのはかなり少ないのではないだろうか(発信しているかは別だが)。

SNSの世界では、自分という存在が生み出している価値(自分の価値そのものではない)がアカウントを通して明確に数字として評価される。
いいねが周りに比べて少ないと悲しい気持ちになったり。
フォロワー数が周りに比べて少ないことに恥ずかしさを感じたり。
そんなことを感じた経験がある人も少なくはないのではないだろうか。

SNSを仕事ではなくただ自分自身が体験したこと・感じたことの発信だとか記録だとかに使っていたとしても、その発信につくいいねの数は、あなたがいるコミュニティでのあなたの関心を持たれている度合いを反映することとなる。

SNSで何かを発信する限り、あなたは"比較"から逃れることはできない。
それも明確に数字を持って比較される。


さて、ではこのように人々が明確に"比較"することができるSNSが生まれたことで、何が起こるのだろうか?

昔から人間は、自分が惨めな気持ちで生活をしなくてもいいように、または現実逃避がいつでもできるように、"比較"という手段を使ってきた。

封建的身分制度を見ても、自分たちよりも下の立場の人たちがいるんだと人々を安心させるために、穢多や非人という区分が明確に作られたりしている。(実際はこんなに単純な理由ではないが)

これはいつの時代にも共通する人間の心理なのだろう。

ある集団に属していれば、その集団の中で自分が一番"下"の存在だと自分も含めその集団の大部分にそのことが認識されてしまいうる状況は誰もが嫌だし避けたいものである。
一方で、属している集団の中で「自分より下の人間が存在する」と明確に判断することのできる状態にあることは、その人間にある種の優越感を与え、それが安心材料になり、現実逃避してストレスを発散する材料になる。

人間は、"比較"だったり"分類"だったりをする生き物なのである。

だがら、いつまで経ってもいじめ問題や差別問題は解決しない。(近年はどんどん問題が複雑化してきている)


つまり、SNSは新たに周りと"比較"して現実逃避することのできる場を人々に提供したのである。

自分よりもいいねが少ない、ないしはフォロワーが少ない人を見たり、
華やかな旅行の写真やブランド物の写真をアップし他人にマウントをとったり、
そういったことで得られる、自信や優越感で日常で感じた劣等感を上書きしたりすることが日常になっているのだろうな
という人たちはSNSを使っていればよく発見する。


しかし、SNSで見られるのは、「表層」だけである。

SNSでは、その人本人の中身までを知ることはできない。

別に大して中身のない人でも、SNSでは"凄そう"に見せることが可能である。
プロフィールに自分の今までにとった資格を並べて書いてより"賢そう"に見せたり、
写真の撮り方を工夫して料理をより高そうに見せてより"お金を持ってそう"に見せたり、
大袈裟な修飾語を使って見ている人の気を引くことで"価値がありそう"に見せたり、、、

そういう、「中身」がなくても「表層」だけ凄そうに見せることができるSNSという比較の手段が人々に広まってしまったことで、人々は「表層」を凄そうに見せる技術だけを磨けば優越感に浸ることができるようになり、肝心の「中身」を磨くという作業が疎かになってしまっているのではないだろうか。

別に、そのようになっていると断言することのできる材料は全く持ち合わせていないが、何かそのようになっていると感じてしまう。
(実際、大してすごくもないのに表層だけは凄そうに見えるな…という人は何人か見てきた)

未来の戦いのことを見据えずに、今目の前にあるSNSという比較の戦場で自分が勝つために必要な技術を磨くことだけに集中した結果、将来的に比較の戦いに勝つための武器を全く磨くことができていない。
そういう状況に人を簡単に陥らせることができるのがSNSではないのか?

という、問題提起である。

でも、そういう中身の対してない人たちが増えていけば、それは将来的に中身のない表面的な文化が形成されていくことになるというのはある意味間違いのないことである。

だから、今一度将来のことを考えて、自分をよく見せる技術だけではなく、自分が将来的にずっと使える嘘偽りのない武器を育てるということをしてみよう。


しかし、現在は、周りがやっている以上、自分もSNSをやっていなければ浮いてしまうという感情がどうしても存在するが、
SNSのない時代には、そういう自分をよく見せる技術を磨かなくても劣等感を感じることは、SNSを自分の周りもやっていないために起こり得ない。

そういうSNSを要因に自分を邪魔する感情が全くなかった時代に比べて、自分の中身だけを人にも見せずに淡々と磨くということは格段に難しくなってしまったのもまた事実である。

だから、定期的に本当の自分と真正面から向き合う機会を現代の疲れている人たちは作るべきではなかろうか。

きっとそういった、理想と現実のギャップを定期的に見つめるということが、自分が進むべき道を踏み外すということを防いでくれるのであろう。

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