5.私にとってのドラマ【テレビは私の鏡】唯一の生きがいだった
小さい頃からテレビばかり見ていました。
その中でもドラマは好んで見ていたし、家族で楽しむことも多かったです。
私が苦しいとき、上手くいっていない時こそ、
ドラマの価値は大きくなりました。
それが顕著だったのは小学校の高学年のとき。
4年生の時は、上手くグループにはまれずに
1人になってしまい、仲良くしたい相手と一緒にいれず、
5、6年生の時は、よく一緒している人たちはいたものの、気が合わず、友人に合わせることが多くて気疲れしていました。気が合わないので、学校外で遊ぶこともあまりありませんでした。
部活には入っておらず、趣味のないその頃の私にとって、
楽しみといえばテレビくらいしかありませんでした。
特にこの頃は、週一回のドラマの放送を楽しみにしていて、「あと○日頑張ればあのドラマが見れる」とばかり考えていました。
具体的に言うと、「デカワンコ」は特に楽しみにしていたのを覚えています。ロリータファッションの刑事「一子」が、鼻が異常に利く事を生かして活躍するコメディドラマでした。
それから、放課後に毎日見ていたのは、
BSの「Dlife」というチャンネルで放送されていたディズニーチャンネルのアニメやドラマ。
夕方に30分のアニメ、ドラマがいくつか連続で放送される時間帯がありました。
ディズニーチャンネルのドラマは、「フルハウス」などでお馴染みの「シットコム」という形式で、ドラマ中にお客さんの笑い声が入ったりする、笑って時々泣けるコメディドラマがほとんどでした。
ディズニーのドラマは録画して何度も見ました。底無しの明るさで暇な時間を埋めてくれて、海外の雰囲気で私を現実逃避させてくれました。
ディズニードラマに関しては、単に娯楽というだけでなく、私に憧れの気持ちも与えてくれました。
日本の連ドラもそうですし、ディズニーチャンネルのドラマもそうなのですが、それらのドラマがなかったら、どうやって生きてきたのだろうというくらいです。
本当にそれだけが救いで、楽しみで、
いつか何か夢中になれるものを見つけ、信頼できる仲間たちに出会えることを願って耐えている日々でした。
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高校になって放送部に入った私は、夢中になれる事も、信頼できる仲間も同時に手に入れました。本当に人生が開けた気分でした。
朗読をメインにやる一方で、ラジオドラマの制作も行いました。
最初に数分の短いラジオ作品を作ったときは、自分の中の繊細な気持ちが少しでも人に伝わったことに感動しました。
次に作ったラジオドラマは、かなり精神と体力を削って制作しました。共同制作者には迷惑をかけました。
その分、そのドラマは予想以上に評価され、
全国大会で、我が校の快挙となるような賞をいただきました。
九州のラジオ局の方が、私たちのラジオドラマに対する感想の手紙を送ってくださり、その中に
「たからものみたいな作品ですね」
と書かれていて、ハッと気づきました。
私は「たからもの」を作り出したのだと。
そのことにも、また感動してしまいました。
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もともとドラマが好きなことに加えて、経験は浅いながらもドラマを作る側の視点も得た私は、より特別な思いでドラマを見るようになりました。
面白いドラマには、すごい!と、前にも増して感激するようになり、
自分ならこういうドラマを作りたい、ドラマにはこうあってほしい、などということも考えるようになりました。
それから、女優になりたいとも思い始め、
「ドラマに出る側としての自分」も意識するようになりました。
役者さんには、役に憑依するとか、芝居を楽しむとか、感情をさらけ出すとか、いろんなこだわりや考えがあるかと思いますが、
私がやりたいことを考えたとき、
「面白いドラマを作るために全力を尽くす女優」になりたいのだと思いました。
ドラマに出る側でも、物語を作る側でも、
今度は私が誰かを楽しませたい。
面白いドラマを作りたい。
今度は私が楽しませる番なのだと、今、強く思っているのです。
↑見出しのイラストは私のもう一つの宝物、
祖父が作ったスタンドグラスのランプ。
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