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みんな「視覚建築」にダマされている

建築は見た目がカッコよければいい?


あらゆる業界にテクノロジーが浸透してきている。

もちろん建築設計業界も例外ではない。

今や、CG(コンピュータフラフィックス)のクオリティーは凄まじく、本物の写真と見分けがつかないほどである。

現代において、仕事を獲得できるかどうかは、プレゼンのクオリティーにかかっているといっても差し支えない。

「カッコイイCGが一発決まれば、仕事が入ってくる」という時代である。そんな風潮がうつってしまったのか、いつの間にか当然のように、建主もそれを望んでいる。

建築設計実務がそうであるから、建築専門学校や大学の建築学科も、「いかにかっこいいイプレゼンを作れるか」に教育の重きを置く傾向が強くなっている。

建築専門学校の講師をしていて感じたことだが、設計課題の成績は、建築それ自体の優劣ではなく「いかに、雑誌に載っているような、かっこいいイイプレゼンをつくれるか」に重きが置かれているように感じる。

しかも、そういう学生を企業も積極的に採用するからなおさら始末が悪い。

そのことをとやかくいうつもりはない。実際の実務がそうなのだから、学生にもその教育を施すのは当たり前だという主張もわかる。

しかし、どうも実際の建築設計も、建築教育も焦点がずれているような気がしてならない。

というのも「建築は見るものではなく、体感するものである」と私は考えているからだ。

かっこいいCGは全て「視覚」に訴えるためのものである。しかし、建築は目で見るだけのものではない。

視覚はもちろん大切である。しかし建築とは、空間に響く音を聞いて、流れる空気を感じて、匂いを嗅いで、というように「五感全て」で感じるものである。

視覚だけに訴えるCGで判断された建築は、出来上がると確かに見た目はカッコいい。しかし、カッコいいだけで、それ以上なにかを生み出すことはない。それに、見た目だで薄っぺらく奥行きがないから、すぐに飽きてしまうことがほとんどだ。

それと比較して、五感に訴える名作建築達は、何度見ても飽きることはない。それどころか何度訪れても新しい発見がある。

この違いは時間を経ると恐ろしいくらいに露呈する。街を歩けば、視覚に訴えようとした建築達が、抜け殻のように並んでいる。

テクノロジーが進化すればするほど、ものごとを視覚だけで判断する機会が多くなる。新型コロナウィルスにより、その速度は増しているように感じる。建築行脚の旅に出る学生も少なくなっているようだ。

しかし、どれだけテクノロジーが隆盛を極めようと、視覚偏重社会になろうと、建築の本質は変わらない。変わるわけがない。

「建築は五感で感じるもの」という事実を、実務を行う者はもちろん、建築教育にしっかりと根付かせていかなくてはならないと思う。



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