香山の42「カーネル・パニックⅩⅥ」(60)

 彼の話を聞いた私は、彼も自分に嘘をついている可能性を考えた。つまり彼の、自分はもとより狂人ではなかったという主張が嘘である、ということだ。これは検証のしようがないことだが、彼は実際に狂っていて、他人へ共感を覚えず、罪悪を知らぬ人間だったという過去を、現在のこの一点から見直して、彼の内面世界において狂気の構造を作り変えることで改変を図り、自分の成熟を補助しているのかもしれなかった。
 ……己を殺すものが己の内側で生まれた感情だと知ったならば、その認識は再帰的に己を殺す短剣となるのだから。
「薬中のお前は、世界の創造主なんぞ嘘っぱちに過ぎないものなのに、それを見たと、大方柴田から送られたこの原稿をハイになりながら読んで錯覚したんだ」
 とうとう動揺で視界が揺れ始めた。自我が遊離した私は、好奇心という、自分を滅亡させかねない内から這い出たものが招いた煩悶の原因を隠蔽し、何でもない学生を殺したことを理由にしたのだった。自分で隠した宝物のありかが自分でも分からなくなってしまっていたように。
 明はダッシュボードを開けると、中をまさぐった。出てきた手には注射器があった。彼はまた口を開いた。
「俺が、一緒にお前の薬物依存を治す方法を探すんだ。絶対に、絶対に見捨てやしないからな。お前がいなくなったら、俺は寂しいんだ」
 明が肩で息をし、涙をこぼしていた。私は袖がまくられて露出した注射痕を見つめ、項垂れていた。目の端にはいつも通りムカデやゴキブリどもがうごめいていた。今まで気にも留めなかった虫どもが急に意識の中に入り込んだ瞬間だった。
 タクシーが後ろから警笛を鳴らし、私達は姪浜駅を後にした。

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