「日本哲学の最前線」~今改めて眼前に現れる"不自由"、そして"偶然性"~

日々の読書に記録を、メモ程度の備忘録として残していきます。

日本哲学の最前線 / 山口 尚(著/文)

個人的な話として、どんなコンテンツであっても、どうしても"自分に近い"のものに惹かれがちである。具体的には、リアルタイムに近いこと、かつ日本の文脈から生まれたものであることが多い。例えば、音楽で聴くのはほとんど新譜であるし、日本の音楽がメインだ。本も同様で、あまり古典的なものを手に取ることは多くなく、基本的には新しめの本を読むのだが、そんな自分にピッタリの本である。哲学という分野は特に古典を読むことを推奨されるような印象があるが、それよりも自分が気になるのは、今の哲学がどうなっているのか?である。かつ、海外の話ではなく、自分の身体から地続きで考えられる日本の哲学がどうなっているのか?が、最も興味がある問いであり、まさしくこの問いに答えてくれた。

タイトルの通り、國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳という6人の日本の哲学の最前線に立つ哲学者たちが、今何を考えているのかについて、分かりやすく簡潔にまとめられている点だけでも、非常に興味深く読むことが出来た。しかし、この本の真髄は、2010年代の日本の哲学は「不自由」に拘ってきたと視点から、この6人の思想を貫通して語っているという点だ。読んで納得、まさしくそうだなと思う。決して新しい話ではないだろう。しかし、改めて、現代の状況を踏まえて、自由を語るために、不自由を語ること・考えること、「自由のための不自由論」が重要なのだ

この話を自分の文脈に引き付けて考えれば、"偶然性"という言葉に繋がるだろう。本の中でも何度も触れられている話だ。テクノロジーが急激に発達しつつある社会において、何もかもが我々の手の内にあり、コントロール可能であるという暗黙の前提が強化されてきたのだと思う。スマホがあれば、なんでも無料、もしくはこれまでに比べれば相当に低額でコンテンツを摂取できるし、行きたい場所があれば、電車でも飛行機でも使えば大体行けるはずだ。それらは、何も考えなければ、我々が獲得した自由であり、今後脅かされることは(ほぼ)ないようにも思えたが、天災によって電力節電のお願いがあったことは記憶に新しいところだし、コロナ禍により移動は極端に制限された状況が続いている。少し観点を変えても、ユヴァル・ノア・ハラリは、飢饉、疫病、戦争は概ね克服されたと書いたわけだが、コロナ禍という疫病が続くなか、ロシアはウクライナに侵攻し戦争に発展し、それらの影響から飢饉の深刻さも増すであろうことが容易に想像できるのが、2022年の現在地だ。我々はもっと、自分がコントロールできないこと、つまり不自由、または偶然性にもっと意識的になり、真剣に付き合う必要があるのではないか。そういうことをこの本全編通じて感じるところだった。

余談だが、こうやって考えると、私がリアルタイムに近いものに興味を持つことの理由も、なんとなく説明ができる気がしてきた。おそらく、"偶然性"を求めているからだ。過去の出来事は、すでに"決まっている"。そこに拡がりを感じることはなかなか難しい。(もちろんやってやれないことはないだろうが、必要なのは、その過去から今までの繋がりを辿りなおし、新たな道筋を描きなおすという困難な仕事となるだろう)
しかし、今の出来事であれば、果たしてこれがどのような意味を持つのか?今後どうなっていくのか?という可能性が、多様に開かれている。そこに"偶然性"を容易に見出すことが出来るという意味で、私はリアルタイムのコンテンツを求めているのだろう。

話を戻すと、こういった日本の最前線にいる哲学者が、学術的な世界に留まらずに、その名前を目にする機会が多いのは、とても良いと思う。自分が認識している範囲でも、國分功一郎はオードリーの若林正恭と対談しているし最近読んだ千葉雅也のギャルカルチャーに関する記事は相当面白かった。伊藤亜紗は、Dos Monosとポッドキャストをやってもいる。そんなDos Monosはまさしく"偶然性"を突き詰めるかのような活動を行っていたりもするわけで、こうやってジャンルを横断して、思想が染み出しながら、共鳴している様子は。見ていて面白いし、どんどんやってほしい。

最後に、そういった"偶然性"を意識しつつ、実践を行っているのが、東浩紀なのだろう。この本には出てこないが、思想には十分通ずるところを感じる。"偶然性"を求めるだけであれば、SNSはまさしく絶好の場であったはずだ。しかし、うまくいかなかったのは誰の目に見ても明らかであり、その次をどう見出すかに、皆躍起になっている。そんな中で、動画配信プラットフォーム「シラス」の取り組みは、まさしく自由と不自由の両面が意識されながら、全方位でバランスを絶妙に取っていると感じる。(まだうまく理解できていないが、最近の「家族」から連帯を考え直す、"訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について"(参考1) (参考2)に関しても、地続きの話ではないかと思っている。)
我々には、完全な自由も、完全な不自由もなく、その間をどのように編み出していくかが重要なのだ。それを思想に留めるのではなく、実践を通して考えていくこと。それこそが、これからの哲学に求められることなのだろう

参考

日本哲学の最前線 | 現代新書 | 講談社


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