選挙に行けなくて泣いていたわたしへ
大切な(とても個人的な)〆切が迫り、
最近は朝も昼も夜もずっと、原稿を書いていた。
今日は一段落したら、選挙に行く。
これはわたしにとっては、大きな(とても大きな)変化だった。
*
東京で働いていたころ、選挙に行けなくて泣いたことがある。
近いうちに死ぬと思っていたし、世界のことを、考える余裕もなかった。ヘヴィな人間不信に陥り、他人の一挙一動に動悸を起こし、電車に乗れなくなり、毎日涙が止まらなかった。わたしも世界の一部なのに、行かなきゃとは思っているのに、動けなくて、どうしようもなかった。行けなかった自分をひたすら責めた。消えたかった。世界に参加していない気がした。世界に居場所がない気がしていた。
※さまざまな理由で選挙に行けないひとを、わたしは、決して、責めたりしない。世界に、あなたの居場所がないわけない。それだけは言わせてほしい。当時のわたしにも。
*
乗り越えた、なんて言えない。
たぶんこれからも、ずっと言えない。
くるしみはなかったことにはならない。わたしを構成する、大切な一部に成り果てている。けれどわたしは、不幸や生きづらさを価値にするつもりはない。わたしの価値は、生きづらさではない。わたしはわたしの人生を、不幸だと思うつもりはない。
当時と変わったことといえば、「死にたくなくなった」ことだと思う。汎用的な言い方をすれば「前向きになった」のかもしれない。正確にいえば、「あきらめた」のだと思う。「諦め」ではなく「明らめ」。考えて考えて狂った挙げ句、生きたくても死にたくても、ひとはいつか死ぬと思い至った。
だから死ぬまでは、生きていようと思った。
わたしは詩や小説を書くとき、
いつも「全世界のわたし」に話しかけている。
あなたはどうしたかった?
なにがくるしかった?
どんなことばがほしかった?
どんなひとにいてほしかった?
あなたがどんな状態で、どんな人生を歩んでいようと、
だいじょうぶだと、伝えていたい。
伝え続けたい。
それがわたしにとって、「全世界のわたし」を救うということ。
あのときのわたしは、ちゃんと世界に参加したかった。
不安を不満を怒りをかなしみを、ちゃんと表現したかった。
わかった。
わたしは自分に潜りながら、世界と話をしに行くよ。
だいじょうぶ。
だいじょうぶになるように、
わたしはこの世界で、生きていくよ。
今日は、原稿を書いて、選挙に行きます。