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いつになったらおとなになれますか?【エピローグ】

これまでどれだけ正直に表現することができてただろう?

絵を描けば、創作をすれば、正直になれるとどこかで思っていた。けど、そんなことはなくて、逆に正直になれない不自由さだけが増していくばかりだった。

2019年はいろんな作品に触れる機会があった。絵に限らず音楽、文章、そして人物も。私がどこかで勝手に「自分はこんなこと表現したらいけない」と思いこんでいるようなことを思いっきり作品にして表現している人たちを知るたびに、うらやましくて悔しくて、勝手にシュンと沈んだりしていた。その嫉妬が去年はピークに来ていた。

歳を重ねていけば自動的に、若い世代に可能性を譲って応援できる素敵なオトナ?になれるものだと信じていた。親のことだって、当たり前にそういう目線で見ていた。親の人生より子どもである自分の人生のほうが優先されて当たり前だとどこかで思っていた、ごめんなさい。現実はどうだろう?
表現されるべき時期に正直に表現してこなかった私は、いい年になっても、ずっと、いじけた子どもが身体のなかで内側で、いじけたままでいる。

日々の雑務に追われるふりして、このままぼんやり年を取っていけば、そこそこ真っ当な大人として認知されて終わることができるかもしれない、いまさら子どもじみた表現や創作をして何になるんだ、という葛藤もすごくある。けど、どの生き方に進んだとしても、結局同じように人生はおわる。それだけはたしかだ。幸か不幸かはわからないけれど、面倒なしがらみも今はほとんどない。年賀状だって1枚も届かないようなとびっきりの孤独が確保できている。なのに、やりたいように生きることを私以上に推奨してくれるパートナーもいる。ときどき陥る表現することへのこの葛藤を伝えるといつも、今さら!?と笑って背中を押してくれる。

いじけた子どもの私のせいで、その昔たくさんの人たちに迷惑をかけてきた。その人たちはまったく悪くない、ただ私が子どもだったせいで、寂しいとか悲しいとかいう気持ちを素直に伝えられなかったから、その気持ちがかたちを変え醜くなって、その結果、迷惑をかけてしまった。申し訳ないという気持ちが内側の子どもをかろうじて黙らせている。けれど、黙り込んだ子どもが、考えを改めたわけでも、いなくなったわけでもない。ただじっと黙って、こちらをじっと睨みつけている。そして、じわじわと気付かれないくらいのペースで、私の身体、細胞を蝕んでいるのだ。

このままこの内側の子どもを無視し続けていたらどうなるだろう?そう考えるとゾッとした。無視することに耐えかねて、なにかとてつもなく悪い結果になりそうな気がした。その代償はきっととんでもないものになりそうだ。

だからというわけでもないけど、今年は内側の子どもを開放させてあげることに集中しようと決めた。なるべく芸術として創作で作品で開放したいと思っている。でも最初からうまくはいかない。なので、拙い文章が、不格好な絵が生まれることを覚悟してやってみようと思う。子どもを開放していく道中で、作品がどう変わっていくか、リアルタイムで感じてもらえるおもしろい機会を提供できるかもしれないし、できないかもしれない、乞うご期待!手始めにこのnoteに文章を載せていく予定です。

去年、自分の子どもでもおかしくない年齢の人と話す機会があった。そのときに、自分がその人の年齢だった頃を思い出したし、自分がその人だったらとか想像してみたら、自分が何てへんてこな大人になってしまったんだろうという事実に打ちのめされた。きっとその人の両親はしっかりした大人なんだろうとか色々と思い浮かんだけれど、ほんと、今さらどうしようもなくて。でも、でも、どこかで、ほんの少しだけ、こんなへんてこな大人になりたかったような気もしなくもないんだ。それに、自分以外の人間はみんな弱いところやダメなところがないと信じこんでいるこの考えをアップデートしたいと思ってて。ここ数年はそんな思いで生きてる。今年は、人はみんな弱いとこも嫌なとこもあるし、いいとこも強いとこもあって、それが人間だと思える実感をもっと肌感覚で強めたいと思ってる。頭ではわかっているんだけれど、まだ内側の子どもが納得してくれてない。いじけたままだ。

一般的には守りに入るような年齢なのに、私は冒険に出る。画家として芸術家としての成長よりも、個人の成長のためだけの冒険。だから、はたから見たら、無様で汚らしいかもしれない。ダサいかもしれない。自分が好きな人には好かれないかもしれない(実はそれが一番の恐怖だったりするけど)それでも、自分の内側の子どもの機嫌を取ることが何より最優先事項だし、それが終わらない限り、誰のこともしあわせになんてできないし守れないだろうから。

ここに載せていく文章は、いろんな形式になると思います。現実の体験なのか気になる文章も出てくるかと思いますが、基本、創作、作品だと思ってもらえればと思います。だって、今目の前にある現実だって本当のところすべて思い込みかもしれないし、記憶だって頭のなかだけで構築されているものかもしれないし、真相は誰にもわからないし。ただ、私というフィルターを通して生まれてきた文章、作品であることは確かで、かと言って、それは私だけのものではなくて、皆とつながっているはずの深層心理や無意識の世界から引きずり出してきたもので、どこかの誰かと共鳴し合うこともできる、そういうものはすべて作品と呼んでいいと思っているので、作品として楽しんでもらえたらと思います。

自分の内側から発せられる何かを、掴んだと思ってもすぐに消えてしまいそうなそれらを、1枚でも多く作品にしたい。同じ感性や同じ心象風景を持つ人たちの元に作品を届けたい。と願って日々描いています。またサポートして下さることでいのっちの電話に使える時間も作れるので助かります!