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日本人がW杯で掃除する深過ぎる理由

先日noteを読んでいたら、学校で子供に教室を掃除させるのは世界でも日本ぐらいと書いてあり、感銘を受けました。

掃除は完全に一つの精神修養であると個人的に感じているので、教育に掃除を取り入れているのは日本人だけなのか、と思ったからです。

そういえば、サッカーのW杯などで日本人が試合後の観客席を掃除することが外国人にとって驚きであり、また称賛されているという記事を思い出しました。

なぜゴミを拾うのかとインタビューした外国人記者が、複数の日本人から聞いた「ATARIMAE」という言葉も話題になったようです。

「使った後を使う前と同じように綺麗にすること。いつも感謝の気持ちを持つこと」を習っており、それは「当たり前」だと。

たしかにそうですよね。使った後を散らかし放題で放ったらかしでその場を後にするのは、心ある日本人にとってはかなり気持ちの悪いことです。

では、なぜ日本人はそれこそ当たり前になるほど身に付くまで子弟に教え込むのでしょうか。

マナーや行儀がいいといった表面的な解釈で終わらせるのは、とても惜しいことです。

そこには人生の意義にも通底する、今ではほとんどの日本人が知らない、とても深い理由がありました。

人生の意義に通じる掃除の本質的意味

「使った後に掃除や片付けをして元の綺麗な状態にすること」

これを本質的に表現するなら、サッカー観戦、学校での日課など、一連のプロセスを完了させるということです。

武道は「礼に始まり、礼に終わる」と言いますが、これも同じことでしょう。

自らの行為を完了させる、すなわち、「全うする」ことを意味します。

そして、先日記事に書いたように、宇宙の森羅万象を成す根源的存在の性質こそ、「全うする」ことです。

万物は流転し、次々と相を変え、飽和して次の段階に進み螺旋を描きながら発展を続けるか、あるいは、崩壊し、還元され、また新たな循環へと組み込まれます。

カタカムナ文献を見出した楢崎皐月、継承者である宇野多美恵両先生が読み解いたこの世の根本原理です。

カタカムナは縄文前期の日本に存在したとされる幻の文明で、学術的には認められていません。しかし、古神道、神道の流れなどを通じて、その精神は現代に至るまでたしかに受け継がれてきたと私は考えます。

石田梅岩の倹約の真意

時代は下り、江戸時代の思想家で、石門心学の創始者である石田梅岩は、徹底した倹約を説いたことで知られています。

(井戸の)釣瓶の古縄は、干しておいて焼くための燃料とし、その灰は、火入れや火鉢に入れて用いていた。これが、火を長持ちさせる秘訣だった。畳の古縁は、埃払いにして使った。

「石田先生事蹟」

このように、釣瓶の縄や畳の縁なども捨てずに使い切り、米の研ぎ汁、釜についた米粒まで捨てずに鼠や雀にやっていたそうです。本当に徹底していますね。

ただし、梅岩は私欲に基づく倹約を否定しています。単なる節約やましてや吝嗇(けち)ではないのです。

倹約の思想の根底にあったのは、梅岩の言葉によると「万物の方に従うこと」、すなわち、人も物も持っている性質を生かし切るという考え方です。

丈夫な新しい縄は釣瓶に使い、古くなって強度が落ち、その代わりささくれて柔らかくなった縄は焚き付けにはもってこいです。まさにそのものが持つ性質を生かしています。

つまり、変転する相に合わせて、そのものが生きるように計らうことで、物の命を全うさせることを大切にしているのです。

森信三先生のローソクのたとえ

さらに、昭和の教育者、思想家の森信三は、人生の意義について、次のように述べています。

 人生の意義とは、例えて申せば、ここに1本のローソクがあるとして、そのローソクを燃やし尽くすことだとも言えましょう。つまり、半分燃やしただけで、残りの燃えさしをそのままにしておいたんでは、ローソクを作った意味に叶わないわけです。つまりローソクは、すべてを燃やし尽くすことによって、初めてその作られた意味も果たせるというものです。
 同様に私達も、自分が天から受けた力の一切を、生涯かけて出し切るところに、初めて、小は小なりに、大は大なりに、国家社会のお役にも立ち得るわけで、人生の意義といっても、結局この外にはないと言えましょう。

「修身教授録」森信三

森先生の教えも、力を出し切る、つまり、天から受けた命を全うすることに人生の意義を見出しているのです。

日本の素晴らしいところは、教室で難解な学問を通じて、人生の深遠な真理を学ぶのではなく、掃除など当たり前の日常を通じてさりげなく心身に沁みるように教えたことでした。

それゆえ、当の日本人もその真価を理解できず、まして、他文化の外国人に誇りを持って伝えられず、相変わらず精神的には後進である西洋を崇拝しているのは歯痒くもあります。

日本の伝統は、神道に見られるように「言挙げせず」、つまり、大切なことは言葉では伝わらないとして、体験を通して感覚で伝えるものでした。

しかし、共通の基盤を持つ日本人同士ならそれがベターでも、何でも言葉にしないとわからない外国人に対しては、言語化できるよう知識を備えることが重要かもしれません。

掃除という行動が持つ価値

ここで、日本人が掃除を大切にしてきた理由についても触れておきましょう。

掃除をしていると、最初はイヤイヤやり始めたはずが、やっていると面白くなり夢中になって取り組んだ。終わってみると、心地よい疲れとともに、心が晴れ晴れしたという体験、ないでしょうか。

「身を入れる」という日本語があります。残念ながら、最近聞かなくなりましたが。物事を心を込めて丁寧に行う、心を込めてする、といった意味です。

細かい説明は飛ばしますが、ミを入れるとは、微細エネルギーレベルの物理的現象で、遍在するエネルギー、生命力を呼びこむことができるようです。

日本人はよく働くと言われます(した?)が、昔から家事にせよ仕事にせよ、そのように取り組むことで、心身を賦活化し、感受性を磨き、人として徳を高めてきたのです。

この辺りはちょっとハテナかもしれませんが、エネルギーの享受については、先ほどの掃除の事例もそうですが、私自身、登山の機会に何度も体験してきたことです。

いずれ詳しく説明したいと思いますが、今はそんなものかなと思っていただけたらと思います。

そうやって感受性を磨くからこそ、場に対する感謝の気持ちを持つことができるのです。

場とは、競技場や教室という物理的な施設にとどまりません。

場とは、場所だけでなく特定された時間において浮かび上がるものです。また、それに関わる人々の存在なくしては成り立ちません。

目の前にはいなくても、その場を作ってくれた全ての存在に思いをいたし、スポーツ観戦やスポーツ、勉学という楽しく、有意義な体験ができたことに感謝し、表現する行為が掃除ということになります。

掃除にまつわる日本語の驚くべき思念

先ほど、言挙げせずという伝統をあげました。一方で、我が国には言霊という考えがありますね。たしかにその通りで、日本語は短音思念といって一音一音が意味を持ちます。

そこからその単語が指し示す本質が見えてくるし、日本語を話す人であれば、ほとんど無意識的にその感覚を察知しているはずです。

おまけ的に、掃除にまつわる日本語の持つ単語の深みに触れて、この記事を終えようと思います。

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