多浪生活における様々なデメリット考察~自己肯定感の大切さ~

ここ1,2ヶ月の間は廃人というか生ける屍のような生活をしていた。司法試験から撤退すること自体には後悔はないが、仮にも今までの人生を司法試験に合格して弁護士になることを目指していた以上、急に何をすればいいのか、何がしたいのかがよく分からなくなり迷走していた。10月は宅建を、11月は行政書士試験を受験したが、これらの試験に合格した後のビジョンを明確にしていなかったこともあり(正直に言えば、これらの資格を取得して働く人生を本気で考えていなかったので)、良い結果を期待する資格さえない。特に今年の行政書士試験においては最後の司法試験と比べても知識の量・正確性以前に試験に臨む姿勢からしてもう駄目であった。以前「受験の『始点』と『終点』」等と偉そうな投稿をしておきながら当の本人がそれを出来ていないという体たらくである。穴があったら埋めて欲しいくらいである。

こうした不甲斐ない状況になってしまった原因として、長らく浪人生活を続けたことによるデメリットがぶり返してしまったせいではないかと考えている。浪人生活が長引くことのデメリットなどというのはわざわざ私がここで説明するまでもなくネット検索すればいくらでも出てくるだろうし、何ならYoutubeでも私よりよっぽどディープで様々な多浪を経験した(している)方々の話を無料で視聴することもできる。では、何故あえて私がこうして投稿するのかといえば、少しでも地方の独り身で浪人生活を送ることのリスクを味わって欲しいと思うからだ。「そんなもん味わいたくない」というのはごもっともなのだが、特にこの投稿を読んで下さる方が万が一にも司法試験や予備試験、あるいはそれに準ずる難関資格の受験生ないし浪人生の場合、最終的に合格できず試験から撤退したとしても「君はリスクを承知の上で何年も浪人生活を続けてきたわけでしょ。何を甘えたこと言ってるの」等と就活の面接や訓練で言われたとしても文句を言う資格がない(とみなされる)からである。適切なリスクヘッジをするためには、あらかじめ想定される「最悪」のパターンを見越して対策を立てる必要がある。既に「不合格」の称号を得た私の以下の経験が読者の今後の失敗を回避するための礎になればせめてもの救いである。それでは、個人的経験に基づく司法試験の多浪及び地方一人暮らしの浪人生活のデメリットを紹介していく。

※あくまで個人的な経験に基づくものなので、他にも想定されるデメリットをいくらか見逃している可能性が大いにありますがご容赦下さい。また、首都圏ではない司法試験浪人という状態も考慮していただけると幸いです。


1. 部屋が散らかり、生活リズムも崩れる
実家で過ごしていた時期はある程度生活のメリハリがつけられていた人でも、大学入学や就職あるいは転職等を契機に一人暮らしを始めて新しい生活リズムに慣れてきてから生活自体が段々だらしなくなっていくものである。

本棚が無い、若しくは足りないので新しく買った本やレジュメの類いは床にどんどん積み重なったり(そして、大抵これらのものは滅多に読まれることなく埃が溜まっていく)、洋服や下着はわざわざクローゼットにしまわずその辺の手に取りやすいところに置いておいたり(少しでも楽をしたいと本人の中では「合理的な行動を取っている」と思い込んでいる)、とりあえず目の前の机に置ける物は置いておいたり(少しでも以下同文)、実家から送られてくる食品も基本自炊をしないせで賞味期限がどんどん切れているのに「消費期限じゃないし腐敗してないから大丈夫」と何故か捨てずに「いつか食べる」と信じていつまでも取っておいたり…。『山月記』で虎になった李徴もここまで卑しくはならんであろう畜生になってしまうのは、人の目がなくなることで自分が暮らしていくだけならさほど気にならなくなってしまうからである(セルフネグレクト予備軍になりそうではあるが)。「熱力学第二法則(エントロピーの法則)によればこの部屋の状態は科学的に正しく美しい」等と何かの理系の本なのか、それとも森見登美彦氏の何かの小説で読みかじったような詭弁を正当化し始めるといよいよ始末に負えない。

要するに典型的な「汚部屋」を製造してしまう。部屋の整理整頓と受験の合格可能性に相関関係など無いと思うなかれ。自分の部屋を客観的に、綺麗に整理整頓できないことは自分自身のスケジュールや健康管理も疎かにしていることの裏返しであることを識るべし(私はそれに気付くのが遅すぎた)。このことは合格してから実務家として社会人になるにせよ、受験から撤退して就活等を通して社会人になるにせよ、同じことがいえる。なお、自宅の整理整頓を怠る者はたいていロースクールの自習室を与えられたとしても、自習室の机やロッカー等も同様にごちゃごちゃしている可能性が高い(あくまで個人の感想です)。

このようにたとえ部屋が散らかっていても大学やロースクール等の講義があれば通学のために最低限度の生活リズムは保障される(部屋がだらしない腐れ学生は大体自主休校しがちでもあるが。個人の感想である)。しかし、大学やロースクールを卒業ないし修了してしまうといよいよ自分を強制的に縛ってくれるものがほぼなくなる。そうすると、バイトや模試、本番の試験日でもないのなら明け方まで勉強(知らないうちに無意義なネットサーフィンをすることもしばしば)をして眠くなったら寝て、午後を過ぎてから起床するといったような正に堕落した生活を送るようになる。文字通りの昼夜逆転生活になってしまう。そして、一度生活リズムが崩れて昼夜逆転生活が身についてしまうと体調も崩しやすくなってしまう。この点の詳細は後述する。

首都圏であれば大学やロースクールが無くても予備校の校舎があるのでそこでリアルタイムの授業に出席するなり、ゼミに参加する等で生活リズムを担保することもできるのだろうが、地方だとそもそも予備校の校舎が存在しないということも珍しくはない。なので、地方の一人暮らしの受験生(浪人生)は生活リズムを担保することが困難になり易い。「地方でもインターネット配信で首都圏と同様の授業が受けられるのだから甘えるな。そもそも貴様の生活リズムの乱れは自業自得だろうが」と言われてしまえばそれは全くもっておっしゃる通りなのだが。

ただ、一人暮らしで受験生をするということは、受験勉強だけでなく日々の家事を全て自分でしなければならないということである。「何を当たり前のことを言っているのか」と思われるかもしれないが、誰の手も借りずに(借りることも出来ずに)日常生活を送ろうとすることが実際はどれだけ面倒臭いことなのかということを皮膚感覚で理解しているかがここでは問われている。浪人生活となるとそこまで頻繁に外出する頻度は多くはないであろうが、それでも食事は何かしらの方法で毎日摂らないといけないし、生きている以上汚れは溜まっていくのだからどこかのタイミングで掃除をする必要も出てくる。洗濯も定期的にしなければいけないし、食品や洗剤・文房具といった消耗品も足りなくなってくれば買い出しに出かける必要もある。何かしらの公的書類を提出しに出かけることもあるだろうし、具合が悪くなれば病院へ行く手続きもしなければならない。

こうした諸々を全部一人でしなければならないのである。日常のこうした雑用をほぼ全部外部に委ねて純粋に受験勉強に専念できる環境にあるというのは、それだけでも私に言わせれば大いに受験をする上でのアドバンテージがあると言わざるを得ない。にもかかわらず結果が出ないとするならば、時間対効果を考えた上であまりに非効率的な勉強をしていることにならないだろうか(社会人として会社勤めをしながら、あるいは子育てをしながら予備試験を突破した受験生もいるというのであれば尚のこと)。「過ぎたるは及ばざるが如し」というように、勉強だけしすぎても良い結果が出るとは限らないのである。話を戻すが、日常の家事と受験勉強のバランスがどこかで崩れてしまうリスクが一人暮らしの受験生には潜んでいる。


2.社会から孤立するリスクが高まる
首都圏であれば司法試験予備校の校舎がいくつも設置されていたりするだろうから、外出さえできれば浪人仲間(という不名誉な名称を付けられる前に合格することをオススメするが)に出会える可能性も高いのだろう。しかし、上述のように地方にはそもそも司法試験予備校の校舎が無いということも珍しくはない。仮にある予備校の校舎があったとしても、自分が別の通信の予備校を使っているとするとその校舎に立ち寄ることもほとんどなくなるから、結果孤立する可能性が高まる。あるいは、ロースクールなどで自主ゼミを組んでいるとしても優秀な人から順次抜けていき次第に自然消滅なんてこともある。そうしていくうちに、ロースクールの自習室からも足が遠のいてしまうことも珍しくはない。

浪人生活が長引き社会からだんだん孤立していくと、自分が目標としている受験に対するモチベーションが大幅に削られてしまう。「同期や先輩、後輩は昇進したり転職したり、結婚したり子供が出来たりといった話は聞くのに自分は一体何をしているのだろう」等と余計なことを考えてしまい受験勉強が続かなくなってしまう、あるいはだらだらと結果の伴わない受験勉強をしてしまうことになる。

また、浪人が長期化して社会的に孤立している、現実に居場所が少なくなっている人間はネット上で陰謀論とまではいかないまでも通常の判断能力では選択しないような情報に何の疑問もなく飛びつき易くなってしまう。「これだけで合格する○○試験」だの「今の時期にこれやるとか終わってる」だの、もう少し考える余裕があれば「そんなわけないだろう」「人によっては当てはまらないこともあるだろう」等と冷静に判断できることでも、孤立した生活を続けていると認知が歪んでしまい普通ならば選択しない情報でも「これは現在の自分の現状を救ってくれる神情報」などと自分の都合の良いように受け取ってしまうこともしばしばである。そして、こうした情報を一度盲信してしまうと本当に自分に必要だが耳の痛い正論を素直に、謙虚に受け取ることが出来なくなってしまい、結果的に浪人生活が長引くだけでなく「神」情報の発信者の養分にされてしまうことになる。

そして、人と会う必要がなくなってくるとどんどん自分本位の生活になっていく。そうすると、試験当日の日程からかけ離れた生活を自然と送ることになる。そして、それを修正するのに余計なエネルギーを使ってしまい本来受験対策に使うべきエネルギーを浪費することになる。こうして、無駄に浪人生活を送るリスクだけが上昇してしまうのである。

さらに、人に会う必要がなくなると自分の身なりに気を遣うこともどんどん少なくなっていく。自分の服装や髪型にも無頓着になり、髪がはねようが無精髭が生えようが特に気にしなくなっていく。そんな生活が長年続いてしまうと、いざ社会復帰を果たそうとしてもどこから修正をすればいいのかさっぱり見当がつかなくなってしまう。俗に言う「服を買いに行く服が無い」状態になってしまうのである。元から服装に無頓着な人間が浪人生活で更に無頓着さを悪化させると一般的な社会人としてどのような格好が適当なのかさっぱり分からなくなってしまうのだ。「紳士服店でスーツ一式そろえればいい」とか言われても、そうした店に行く習慣も身につけていないと精神的に壁を感じてしまい余計な尻込みをしてしまいがちになる。そうこうしているうちに、どんどん社会復帰のタイミングが後ろにずれ込んでしまう。

「社会から孤立」というと言い過ぎであるかもしれないが少なからず「引きこもり癖」みたいなものはついてしまい易くなっていることは確実である。一度引きこもり癖がついてしまうと体調が悪くなってもすぐに病院に行くことさえも億劫に感じてしまうことさえある。そうすると、後述する体調に関するデメリットが深刻化してしまい、浪人生活における負のデフレスパイラルが加速する。


3. 体調を崩しやすくなる
これは上述の生活リズムが崩れることに伴う副次的なリスクである。外出する機会が少なくなることによる運動不足や社会的に孤立することによってストレスが増えたり免疫力が低下することで体調を崩しやすく、回復が遅くなってしまうことになる(老化による身体の衰えという可能性も否定できないが)。特に浪人生活が長引くと、細菌やウイルスを原因とした病気や内臓の病気と言うよりは、精神的な原因による体調不良が発症する可能性が高まる。精神的な原因による体調不良というのは倦怠感が抜けない(そのため勉強が進まない)ということに留まらず、食欲が無かったり眠れなくなったり謎の動悸が起こったり吐き気が止まらなくなったり等と肉体的な影響が出てくることをいう。そして、これらの症状が厄介なのは仮に内科を受診しても「異常はありません」と診断されてしまうことである(稀に本当に内臓の疾患が見つかることもあるが)。

また、一人暮らしだと食生活も無頓着になりがちである。炭水化物ばかりを食べたりあるいは極端に食事量が少なくなったりして、タンパク質やビタミン不足になることで体調を崩しやすくなることもよくある。


4. 体調を崩したときのリカバリーが遅くなる
一人暮らしで浪人生活をしていると上述のトラブルが生じたとしても自力で解決しなければならないので、病院に直ちに向かうことも困難になる。誰か付き添いの人がいれば自分の代わりに諸々の手続きやら送迎やらをしてもらえるかもしれないが、一人暮らしの場合はこれらの手続きを自力でできるまで回復しなければどうにもならないので、結果的に回復が遅れてしまうのである。実家から離れて暮らしていれば尚更である。

また、自己管理が出来ていないから体調を崩していることを考えると、自力でそれを修正するのは事実上困難である。自分の間違った習慣や癖を第三者に指摘してもらって正しい方向に修正して初めて良い方向に進んでいけるのを何故か「自分は大丈夫」「一人でなんとか修正できなければならない」等と意固地になると、かえって回復が困難になってしまう。おそらくこの手のタイプの浪人生は試験の得点も点数の低いまま伸び悩むのではないかと思われる。繰り返しになるが、自分の客観的な健康状態の把握も困難になるほど認知が歪んでいることに気付いていないということは、試験の現場においても問題文を読み違えたり、自分に都合の良い問題文の事実に基づく答案や知っているだけの知識に基づいた得点につながらない答案を作成しがちだからである。スポーツのアスリートは自身の競技の技術だけでなく体調・コンディションの管理にも気を配るという。受験生にも同様のことがいえる。ましてや浪人生ならばなおのこと体調・コンディション管理に自覚的になるべきである。


5. 事実上の年齢制限に引っかかりやすくなる
司法試験は基本的にロースクールを修了しなければ受験資格を得られないので、仮に大学を現役で合格できたとしても司法試験を受験する時点で25歳を迎える、過ぎることも珍しくは無い。それでも現役や1、2浪程度で司法試験に合格できればその後の進路選択についても問題は無いかもしれない。しかし、何かの手違いで司法試験の受験資格を得るまでに余計に何年か年数を費やしてしまったり、あるいは単純に司法試験に何度も落ち続けてしまうとあっという間に30歳を迎えてしまうことも珍しくは無い。そうなると、仮に司法試験から撤退して就活をしようとすると新卒・第二新卒というカードを捨てて就活をすることになる。

また、ロースクールを修了すると「専門研究員」なる身分を取得してロースクールの施設の利用を継続できるのだが、3年を超えて専門研究員のままでいると大学の就職担当も対応がおざなりになっていく(このあたりは大学の窓口ごとに対応が異なってくる部分だと思われるので、一度自分の大学の窓口に問い合わせることを強く勧める)。30歳前後で司法試験から撤退し就活をするというのであれば、大学の就職課に頼るよりは自力で自分の住んでいる自治体のハローワークや転職サイトを活用する等を肝に銘じておくべきである。

20代よりは30代、30代よりは40代…というように就活は年齢を重ねる度にハードルが高くなっていくという現実は存在する。特にロースクール修了という形で司法試験の受験資格を取得した場合、就業経験の無いまま30代を迎えることも珍しくはない(司法試験の願書の記入欄的には、アルバイトやフリーターというのは「無職」に該当するのである)。「年齢+就業経験無し」というのは就活においては求人の範囲が著しく絞られることを意味する。自分の希望する職種を運良く発見できても自分の現状では肝心の業界からのアプローチが全くない「片思い」状態で終わることもしばしばある。

それでも、民間企業の就活は条件が厳しくなるというだけで全く可能性がなくなるわけでは無い。しかし、公務員を志望しようとすると満30歳を過ぎてからだとほぼ可能性がなくなると思った方がいい。30代を過ぎての公務員の募集があるというのは大抵民間の就業経験のある転職希望者向けの求人であって、司法試験浪人生の安易な救済求人ではないことに注意されたい。また、公務員試験は司法試験とは別ベクトルの受験対策を強いられるので、司法試験の対策と並行して準備が出来るのか、あるいは公務員試験に方向転換するだけの志望先の公務に魅力ややりがいを感じることが出来るのか、よく考えて意思決定をしなければ公務員という進路も法曹という進路もどちらも潰えてしまうことになる。少なくとも司法試験の浪人生活が何年も続いている場合、そもそも要領の悪い誤った勉強法に拘ってしまっている可能性が高いので、安易に公務員試験に切り替えたからといってその公務員試験に合格できる可能性は極めて低いと思った方が良い。もし本気で司法試験から撤退し公務員試験に専念し公務員として働く覚悟があるのであれば、一度勉強のやり方を見直してみることを勧める。

※なお、仮に司法試験に合格できたとしてもその合格者が裁判官や検察官を志望している場合、あるいは弁護士でも大手の弁護士事務所への就職を希望している場合、事実上これらの職業の年齢要件のボーダーラインとして「30歳」というハードルがある(可能性がある)というのは頭に入れておいた方がよいかもしれない。もちろん私自身は直接このことを確かめる術はないし、予備校の講義中の雑談やネット上で見たことのある記事がこの情報の根拠であるという点において、私のこの情報は正確性を欠くと言わざるを得ない。しかし、これらの可能性について自分で調べることなく漫然と自分の進路を目指すのは辞めた方がいい。受験も就活も広い意味では情報戦であるのだから、勉強や対策を始める前の情報収集の精度で周囲に負けてる時点で周回遅れを強いられていると自覚した方がいい。最初の情報収集を怠り後になってから後悔しても遅いのだから。


6. 転職活動の際に余計な未練に囚われやすくなる
上述の事実上の年齢制限に引っかかりやすくなるだけでなく、司法試験を長年受験し続ける生活を送ると当然のことながらその分生活費や予備校費などで数百万円余計にかかってしまうことになる。大学の学部やロースクールの入学費・学費や交通費、場合によっては奨学金も含めると更に司法試験浪人に費やした費用は跳ね上がることになる。本来は司法試験に合格し、実務家として働くことで将来的に合格までにかかった費用を回収しようという人生計画だったのかもしれないが、最終的に司法試験の受験資格を使い切ってなお不合格という結果に終わった場合、今後の身の振り方について大きく分けて以下の三通りの進路選択になると思われる。

a. 司法試験受験を継続する
もう一度司法試験受験資格を得るためにロースクールに入り直すか、予備試験を受験して予備試験に合格することで司法試験に再挑戦するという選択である。この進路選択をしてよいと思われるのは、①「最終合格まであと数点」といったような、もう少しで手を伸ばせるところに「合格」のラインが見えている者、または②実家の支援がまだ十分に期待できる上で本人も受験生活を継続する気力・体力がある者、くらいだろうか。そうでないならば、仮にもう一度受験資格を得たとしても同じ失敗を繰り返すどころか、更に余計に浪人生として金銭や時間を捨てるリスクを負い、いよいよ社会復帰が困難にならざるを得ない状況に追い込まれやすくなる。

b. 別の(法律系の)資格試験に挑戦する
受験生(浪人生)としての社会的身分はそのままに、今まで法律を勉強してきた以上法律を使った別の職業を目指すという選択自体は否定されるべきものではない。もっとも、今まで司法試験の勉強をしてきたのだから別の資格試験なら合格できるだろうと考えるのはいろいろな意味でリスクが高い。司法試験から撤退する者がまず思い浮かべる別の法律系資格試験としては司法書士試験が鉄板なのだろうが、果たしてそのように考える者は司法書士試験の内容や司法書士という業務についてどこまで強い関心があるのか一考することを強く勧める。弁護士業務は法律相談から訴訟代理人、刑事弁護の弁護人からリーガルアドバイス等々幅広い業務があるが(もっと言えば、弁護士資格があれば司法書士業務や公認会計士、税理士業務等をすることもできるが)、司法書士業務のメインはあくまで登記手続きである。司法書士事務所によっては会社の設立登記をはじめ商業登記をメインにしている事務所もあるが、基本的には不動産登記がメインになる。もし司法書士事務所の事務員として就活をするといった場合にも同じことがいえる。不動産登記法・商業登記法といった司法試験には課せられない重い科目(これら2科目の記述式試験が司法書士試験にはかせられる)にその他細かい科目・場合によっては司法試験や予備試験の択一以上に広く深い条文知識を要求される科目も合わさって司法試験以上の受験科目を学習することになってもなお司法書士として働く気はあるのか、そのあたりの軸がぶれたまま司法書士試験の受験を始めてしまうと、司法書士試験の受験直前にあと一歩の詰めが及ばず結局不合格が続いてしまい元の木阿弥になりかねない。

また、司法書士試験を念頭に説明したが、同様のことは宅建だろうが行政書士だろうが、社労士だろうが、弁理士だろうが、それ以外の資格試験の勉強にシフトしても同じことはいえる。そもそも司法試験からの撤退を決意したとしても心のどこかでは法律に良くも悪くも囚われてしまうものだ。だからこそ、司法試験の浪人生活という少なくない苦労続きの生活からある意味解放されてもなお形を変えた受験生であり続けようとしてしまうのだ。こればかりは単純な理屈で割り切れる問題ではなく、体験しないことには分かるものではない(無理してまで分かる必要のあるものでもないが)。少なくとも冒頭で述べたように私が同じような状態に陥った。

資格試験においては「合格後のことは合格してから考えればいい。まずは合格することに全力を注げ」的なアドバイスがなされる場面があるが、個人的にはこのアドバイスに納得する部分と懐疑的にならざるを得ない部分が半々で存在する。「自分が心の底からなりたいとは思えない職業に就くために絶対合格する必要がある試験」を受験し続けることは想像以上に辛いものがあるからだ。受験を続けること、浪人を続けること自体が過剰なストレスを生み、結果的に回復が遅れる疾患を発症してしまいかねないからだ。昭和ならまだしも、令和となった現在において合わない職場で働き続けることに限界を来すようならば休職なり転職することができるのに、どうして受験生や浪人生にはそれが認められない道理があろうか。

試験に合格するために要求される能力と、合格後に実務家として要求される能力がイコールになるとは限らない、というか大体一致しないのが世の常である。せっかく合格しても実務家になってから挫折して実務業界から撤退してしまう、あるいはそのことを考えている者もいるだろう。あるいは、外から見る分には成功しているように見えても本人の内心は多大なストレスや不安に苛まれているのかもしれない。一度しかない人生を苦痛だけで終わらせてしまわないようにするには、どこかで時間の余裕が少しでも出来たときに一度自分の人生をどうしたいのか本気で考える必要がある。大多数の人は新卒での就活で一度そのことを考えたりするのだろうが、その大多数の道から外れて司法試験といった難関資格を受験する道を選んでしまったのならば、自分の進路選択に疑問を持ち始めたことをきっかけに一度考えてみてはどうか。特にロースクール進学をした場合は良くも悪くもモラトリアム期間が延長されている以上、そして現実的な問題としてロースクール修了組の司法試験合格率が芳しくない以上、自分が本当に法曹になりたいのか、仮に司法試験を受験し続けるにせよ撤退するにせよその場合のプランB・C…を本気で検討することをオススメする。いざというときの撤退プランもきっちり構築し損失を最小限に抑える対策を講じることで逆説的に本命の対策に集中できるようにもなるのだから。

c. 資格試験の勉強には見切りをつけ、就活をする
受験生活から撤退し、大多数の動機から比較して遅れて就職活動をするというのも選択肢の一つとしては大いにアリだ。しかし、これまでの長い司法試験浪人生活が悪い意味で就活に影響を与えてしまうこともある。例えば、「これまでの人生を司法試験の受験対策に費やしてきた、すなわちそれだけ莫大な時間や金銭を費やしてきたのであるから、今更この年収では納得できない」とか「今まで法律を学んできたのだから法務以外の業務をする気は無い」といった具合である。その結果、自分で就業可能性を狭めてしまうことで就活が長引いたり、社会復帰自体が困難になってしまうことになる。法律を長年勉強し続けたことで悪い意味でプライドが醸成されてしまった弊害が生じてしまっているのである。

とはいえ、大学の学部やロースクールの授業、受験勉強で得た知識というのは実務で必要な知識や経験と比べるとあまりに微々たるものだ(それでも、専門知識に近い位置にいることや思考力など仕事をする上で間接的に役立つこともあるだろうが)。なにより、労働する上で何より重要な体力や健康な身体、これらを担保する若さといった取り返しがたい資産を犠牲にしてまで自分の実力の届かなかった分野の知識に拘りたいのか、今一度検証する必要がある。もっと言えば、シンプルに法律に携わることが本当に自分のしたいこと・やりたいこと・楽しいことなのか、今一度本気で考え直してはどうだろうか。「何となく社会的地位の高い職業に就けるから」、「親や家族・親戚・教員・友人が満足してくれるから」、「自分のプライドを満たしてくれるから(自分を特別な存在だと勘違いさせてくれるから)」、「モテたいから」、「コスパ良く高収入が欲しいから」…といった動機自体は否定しないが、そのための努力を続けて只々辛く・楽しくならないだけであるならば、ましてやその努力を何年も続けても結果が出ないということは、何かを間違えてしまっている可能性が極めて高い。存外、思い切って法律から離れる勇気を、法律を捨てる勇気を一歩でも踏み出すと思いのほか楽になれることもある、とあえて私は主張したい。

※とはいえ、受験資格と受験期間に制限がかかっているのが司法試験浪人・撤退を考える上で厄介なところではある。司法書士試験などは受験料を支払えば基本的に誰でも受験可能である(言い換えると、自分の任意で辞めるも再受験をするも自由である)ことを考えると、なかなか司法試験に見切りをつけられないことの責任を受験生に全て押しつける試験制度の在り方は大いに問題があると言わざるを得ない。もっとも、司法試験制度の在り方の是非についてはここでは割愛する。


7. 自己肯定感が著しく低くなる
個人的にはこれが一番の多浪のデメリットであると確信している。体感的には3浪を越えると危険領域に入ると思われる。どれだけ模試や練習で上手くいったとしても、結局は本番で成功できなければ意味がない。ましてその本番の失敗が何度も続いてしまうと嫌が応にも「自分は出来ない駄目なヤツ」という烙印を押されてしまう。何度も失敗を繰り返すと、それも努力を重ねてもなお失敗をしてしまうとなると、そのうち負の学習効果としてトラウマが形成されてしまい失敗の原因となる対象そのものから逃避する癖を覚えてしまう。受験でいえば、試験そのものから逃げてしまうということである。ひどい場合だと、自分の失敗したもの以外の対象からも「きっとこれに新しく挑戦してみてもどうせ駄目だろう」と勝手に消極的な評価を下してしまい、そもそも新しく行動を起こしたり今までの行動を改善しようという気すら起こらなくなってしまう。その結果として、上で述べた社会からの孤立や体調不良、社会復帰の機会を逃すといったような他のリスクも併発しやすくなるのである。

自己肯定感の低くなった状態のまま無理に受験勉強を継続しようとすると「こんなことをしてもどうせ無駄」等と自分に都合の言い訳をしてゲームやネット、その他簡単に脳内でドーパミンが出るコンテンツに逃げるようになってしまう。こうした方向の逃避はたいてい自制心も正常に働いていないから、ズルズルと時間を浪費してしまう。その結果、気分転換としての正しい休息になるどころかかえって疲労が溜まってしまい、本来すべき受験勉強の時間がとれず当然のように成績は下がり本番もまた失敗してしまう。以下、無限ループ…といったようにどんどん悪い方向に自分を追いやってしまう。また、仮に自主ゼミを組んでいたり通信講座で答案の添削を申し込んでいたとしても、自己肯定感が低くなると「自分の不甲斐なさを他人に知られたくない」と思ってしまい、記述・論述試験の合格に絶対必要となる自分の答案作成上の悪い癖を修正する機会を自ら放棄してしまい、やはり不合格へと一直線になってしまう。

一方、浪人生活に見切りをつけて就職活動をしようとしても自己肯定感が低いままであると、企業に提出する書類の中で「自己PR」や「職歴」欄を考えたり記入する際に感覚的に躊躇しがちになってしまう。「そもそも司法試験に落ち続けた自分に何が出来るというのか」とか「客観的に見れば法科大学院を修了してから5年程度学生でも労働者でもない微妙な社会的地位にいたわけだが、これはどう取り繕ってもマイナスにしかならないよなあ」とか「自分なんかのために誰かに相談に乗ってもらうのは申し訳ない」…等といったネガティヴな感情に囚われてしまい、そこから一歩も動くことが出来ず、「いっそ死んでしまえるなら楽になれるのでは(でも死ぬのも怖いから死ぬことさえ出来ない)」などと健康的な肉体・精神状態ではほとんど考えることさえないようなことも頻繁に考えるようになってしまう。苦しみを感じているときは「死ぬこと」が「正解」だと錯覚してしまうが、それで本当に死んでしまっては苦しみを修正する機会さえもなくなってしまう。このように、自己肯定感の低下は死に至る病と言っても過言ではないのである。


8. おわりに-自己肯定感育成の勧め-
私自身は、実のところ弁護士(法曹)を生涯の仕事にすることに少なからず疑問を抱きながらロースクール時代を過ごしそのまま司法試験の浪人生活を送っていたので、5年5回以内の司法試験受験回数制限を令和3年司法試験で使い切ってから現在就活をするに至るまであまり法律・法務系の仕事に囚われてはいないと思っている(それでも未練がましく他資格試験の受験はしていたのだが)。一方で、現実には5年5回の受験回数制限を過ぎた後も予備試験を受験したりロースクールに入学し直す司法試験浪人生が少なからずいる以上、すんなり法律業界から見切りをつけて別の業界に目を向けるのは無理だと思われるかもしれない。しかし、法学部に入学した学生は全員が法曹を目指しているわけではなく、半分程度は民間就職をしている以上自分は周囲と就活するタイミングがたまたまズレただけなのだと発想を変えてみるのはどうだろうか。実際、未修コースのロースクール在学中に地元の公務員試験を受験して合格しそのままロースクールを中退した同期もいたりしたので、必ずしも法曹に拘る必要は無いのだ。「わざわざロースクールに入ったのに法曹を目指さないのはもったいない」という意見もあるかもしれないが、そういう者のほとんどは自分の面倒を見てくれるわけでも生活費を出してくれるわけでも、まして合格に必要な知識や訓練を施してくれるわけでもないのだから、そんな意見は戯れ言と切り捨て駄犬にでも喰わせればよろしい。

弁護士資格をはじめ社会的地位の高い(とみなされる)資格試験はプラチナチケット並みの価値の高さがあると錯覚してしまうから、何年もの浪人生活を続けてしまうのも無理からぬことである。しかし、資格とはあくまで社会生活を営む上での手段でしかないのである。実際にその資格を使って仕事が出来ないことには現在の受験(浪人)生活で感じている苦労は虚構か妄想か、あるいは回収不可能な債権でしかないのだ。にもかかわらず、長らく浪人生活が続いてしまうといつの間にか手段が目的化してしまい「この試験に合格しなければ自分は社会に居場所がない・生きている価値がない」などと認知を歪めてしまっては本末転倒である。

一方で、今まで浪人生活で失った諸々の費用を回収するにはやはり浪人生活を継続する方が「合理的」といえるかもしれない。しかし、私のように5年5回の受験回数制限を失うことになってもなお合格に届かない人の大半は少なからず「このまま勉強を続けていても合格できないことは分かっているが、正直引っ込みがつかない」と思っているだけではないか。あるいは、「ここで夢を追うことを諦めてしまうと、何者にも成れなかった自分を直視することになるのが怖い」だけではないのか。

ある意味同じ過ちをしている自分だからあえて私見を述べると、「夢を見たければまず最初に現実を正確に把握する努力を怠るな」と言いたい。以前投稿した「始点」と「終点」の話である。そして、その上で現実をきっちり生きなければならない。現実を生きるということはきっちり自活するということだ。完璧とは言わずともある程度家事を出来るようになり生活に困らない程度の収入を得るということだ。本来生きるということはそれだけで十分偉いはずなのだ。我が国の憲法が「個人の尊重」を謳っている以上、個人の幸福追求の指標も様々な種類があってしかるべきであるはずなのに、そこに「学歴」だの「偏差値」だの「資格」だの「年収」だのといったものを過剰に信仰してしまうから目の前の現実がおざなりにしてしまうのだ。もちろん、安易に「夢を見るな」だの「夢を見るなら現実を見ろ」といいたいわけではない。むしろ、「夢を超えた現実を実現出来るようにまずは現実という土台をきっちり構築することから始めてみよ」と言いたいのである。

こうしたことをきっちり積み重ねることで自分だけの自己肯定感を育てていくのだ。他人からどう言われようが、どう思われようが、せめて自分だけはきっちり自分のしたことを肯定できるようになれば、徐々に自分の出来ることが広がっていく。そうして初めて自分の限界を超えた挑戦をすることが出来るようになるし、仮にそれで失敗したとしても「今回の失敗の原因はどこにあるのか」「次回成功するためにどこを修正すべきか・何をすべきか」と冷静に検証できるようになる。こうした行為を繰り返す内に気付いた時に成功を手に掴んでいたりする。

また、自己肯定感を積み重ねた上で検証を重ねていくと、当初の「成功」だと思っていたことから軌道修正することも容易になる。どのような進路をたどることになっても自分に自信が持てるようになる以上、自己肯定感の低い時点では歪んで見えた「成功」図も正しい方向から見えるようになる以上、当初は全然思いもしなかった新しい道が開けることもある。もっと言ってしまえば、当初抱いた夢に拘らなければいけない決まりも、夢は一つしか持ってはいけないなんて決まりもないのだ。浪人生活が長引くということはそれだけ失敗を重ねてきたということであるが、それを単純にネガティヴに捉えるのではなく「貴重な失敗のサンプルデータを得られた」と(多少強引にでも)思ってみるのだ。生きて何かしている限り本当の意味での失敗はないのだから。本当の意味での失敗とは「なにもしない」ことなのだから。そして、失敗した者をあざ笑ったり叩いたりする者というのは大抵その「なにもしていない」暇人だと相場が決まっている。そんな暇人共の戯言などやはり駄犬にでも喰わせればよろしい。まして、そんなつまらないことに囚われて自己肯定感を低めてしまってはもったいないことだ。

もし現在自分の自己肯定感を低めてしまう環境にいるのであるならば、何をおいてもまずはその良くない環境から抜け出すことに全力を出すことを勧める。人は環境によって良くも悪くも変わってしまえるのだから、自分を不健康にする環境から脱出する・自分が楽になれる努力を怠ってはいけない。そして、自分一人ではその環境から抜け出せないというのであれば、親族や友人、それらの援助を期待できないのであれば民間のサービスや公的機関の援助を探せば良い。私のこの文章を読めているということはこうした情報を収集する手段も同じようにあるのだから、あとはやるかやらないかだけだ。人間は楽をしたがる生き物だから何かを変えることに強い精神力を必要と勘違いしてしまいがちだが、実際は最初に何かを変える際に要する力の方が現状維持をし続ける力よりだいぶ小さく済むものだ。初めて自転車に乗ろうとすると大変な気がするが、一度自転車を乗るコツさえ掴んでしまえば後は楽々と、徒歩と比べてもどこまでも遠くへ行けるようになることと同じである。

生きている以上細胞は新陳代謝を繰り返し日々変わり続けている以上ある意味「自分」というものは永遠不変のものではないといえる。そうであるならば、どうして人の見る「夢」が不変でいられようか。良い意味で当初抱いていた夢が別の夢に変わることもあるし、浪人生活など失敗を繰り返す内に当初抱いていた夢が「悪夢」に変わって現実に悪い影響を与え続けることもある。特に司法試験などの難関試験に落ち続け浪人生活が長引くと夢は悪夢になりやすく、先に述べた様々なデメリットとして現実を侵食する。

この悪夢から覚める特効薬こそが「自己肯定感」だと考える。司法試験などの難関試験を受験してから初めて自己肯定感を持てなくなったということは、10代など若い内に健全な自己肯定感を十分に育めなかった可能性がある。若い頃には出来ることしかしてこなかった・あるいはさせてもらえなかったせいなのか、たまたま今までは上手く成功できたことで自分の行動を省みる機会に恵まれなかったからかもしれない。何にせよ、もし現在自己肯定感の低さに苦しんでいるのなら、今回が自己肯定感を育てる良い機会と捉えて自己肯定感を鍛えてみることを勧める。

具体的には、どれだけ小さいと思えるようなことでも「自分はよくやった」と思うことである。一番良いのは自炊してみることである。普段料理する習慣がなくても、コンビニやスーパーで買った三色弁当に鮭フレークを追加して「四色弁当にしてやった」とかでもいい。ポテトサラダに自前でコショウやブラックペッパーを追加して味をアレンジするレベルでもいい。とにかく、事務的に目の前に与えられたものを処理するのではなく「自分の意思で現状を良い方向に変える工夫をしている」といった経験を積むのだ。もちろん、上手くいかないこともあろうがそのときは「何故失敗したのか」を考え失敗の原因を突き止め、改善策を検討する訓練をしてみるのだ。身近な生活を通して失敗から原因を突き止め修正する訓練を通して、最終的には受験勉強にも応用していくのである(もちろん、受験勉強だけではなく就活にも応用は利く)。

欲をいえば、失敗の原因や改善策、成功の結果を細かに記録するとなお良い。人間の記憶力とは良くも悪くもいい加減なもので、大事なことに限ってうっかり忘れたり、忘れたいことに限っていつまでも大げさに記憶に残ったりすることがしばしばある。そんな時に記録する習慣をつけておけば、忘れてしまったとしてもリカバリーが効くし、「最悪」と感じた記憶も時間を経過してから改めて見直すと「そうでもなかったし、当時の自分は大げさだなあ」と感じることが出来るようになるからである。ちなみに、こうした記録をつける習慣は、軽いうつ病対策にも効果があるそうである。

…随分長くなってしまったが、これを読んで下さった読者が「自分もこんな中学二年生じみたことを悩んでいた時期があったなあ」と笑って過ごしてもらえるようになっていればそれなりに苦労してこの文章を作成した甲斐があって幸いである(ブラウザバックされてるかもしれないが)。一方で、現在自己肯定感の低さに悩んでいる等苦しい現状の中、幸か不幸かこの文章に巡り会った方が少しでも現状を改善するヒントを得られたというのであればそれはそれで幸いである。どれでもないというのであればスイマセン。色々まとまりのない文章になってしまった自覚はあるが、これも私の自己肯定感を育てる訓練の一環としてご容赦いただきたい。この投稿内容に説得力を持たせるために、自分も就活というか多少は安定した収入を得られる手段を得られるように精進する次第である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?