ASDと「共感力」

「病室なう」もネタが尽きてきたので、別の内容を書きます。

ご存じの通り、ASD(自閉症スペクトラム障害)は想像力の障害で、それに起因して人間関係や仕事諸々、生活全般に問題を生じます。筆者もそんな障害を40年以上抱えて生きていますが(というより死ぬまで一生抱え続けますが)、「共感」が大事と言われるこれからの時代に筆者がどう備えているかを書いてみます。

最近だれかとのチャットやメッセージを書くとき意識しているのが、相手を気遣う言葉を最初に持ってくることです。

例えば最近は骨折と入院ネタをたくさん書いているせいか、フォロワーさんたちの骨折や入院の体験談を聞くことが多くなりました。そういうコメントやメッセージへの返信を返す時、意図して「大変でしたね」「辛かったでしょうね」「今は大丈夫ですか」というような一文を入れています。

そして形だけでもそう書くと、なぜか自然と自分の考えまでそれについてくるのに気づきました。文章化する時に考えるので、自然にそういう思考になっていく感じです。
「形から入る」は必ずしも肯定的な言葉ではないようですが、形から入ることで中身がついてくることもあるようです。

その意味で、「ネガティブな言葉を使っていると不幸になる」というのはあながち間違ってはいないのかもしれません。ネガティブな発言をすると思考がそちらの方へ寄ってしまい、だんだん視野狭窄・思考停止になっていきます。もちろん前向きな思考とか言動は消えていくので、余計うまくいかなくなります。

3年前の2019年は1年近くパワハラ地獄が続きましたが、業務時間外にはネットで「死にたい」とか、「自殺」とかで検索するようになっていました。明るい音楽が耳障りで聴けなくなり、暗い曲が聴きたくなり、余計にメンタルを病んでいく、日々の生活でも悪い点にばかり目が行き、ストレスがたまり、周りにもきつく当たり、人が離れていく… の悪循環でした。

ただ1年間休職で完全に離れたからこそわかるのですが、現職では
「人の嫌がることをしてはいけません」
「相手の立場で考えなさい」
という小学生レベルの知識もない「経営者」「管理職」が溢れています。
そして多くの人が「外の世界」を知らないため、そんな異常な環境が「当たり前」になってしまっています。

ただ、そうなってしまう理由もわかります。昭和・平成の教育は「個性」も「人間性」も奪い、自分の頭で考えることを否定し、ひたすら上からの命令や前例への盲従を叩き込むだけの洗脳でした。そして筆者はASDや体の弱さゆえに適応できず、40年間「生き地獄」を見ました。しかしそんな体験を通し、世間の「当たり前」が実は異常であることも気づけました。
そう考えると、40年間の生き地獄も無駄ではなかったかもしれません。

退院後に最終面接となる外資は年末に面接を2回受けました。英語での面接でしたが、「自分の強みは?」との質問に対し
「自分も長年パワハラや虐待を受けてきたので、相手の痛みがわかる」
「誰も取り残されないよう気遣いができる」
と答え、無事通過しました。

ASDだから「共感力が低い」とは今は思っていません。
この本↓にも書きましたが、変わらないことを悲観しても無駄なので、今できることをやっていくつもりです。






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