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普通なんてないと言うけれど

普通ってなんですかって浅い質問がたまに飛び交う。普通なんてない!とよく人は言う。でも、普通はある。
障害なるものは、マイノリティなるものは、普通があるからあるのである。
良いも、悪いがあるから存在できる。相互関係がある。
型にはまれない人間を、普通じゃないと人はいう。その人から見た普通がそこにあるから、普通じゃないのだ。
周りの誰かからみて、普通じゃないと思われる経験は多かれ少なかれ誰にでもあるのだろうから、それもまた普通と言えるのかも知れないけど、やはりそこにも普通は存在する。ゲシュタルト崩壊してきた。
私がフツーじゃないと言われること、例えば、家族や親族に対する普通の感情がインストールされていないこと。

血が繋がっているという理由で、人と仲良くするという感情がない。人生で1-2度会っただけの親戚に、大変お世話になったことがある。ありがたいけど、正直世話になる意味が分からなかった。
私からしたら、よく知りもしない人でしかない。残念ながら馬が合うとは思えない方だったし。これが同僚や友人関係ならまだしも、親戚関係だとややこしい。これ以上会いたくないと伝えても私は全く困らないのだが、それは親族内の雰囲気が悪くなるらしい。やはりそこに普通の存在を認めたので、荒波立たないよう努めた。
私とその親戚の双方において、関係構築はしていない。数回挨拶しただけ。急に親しい振る舞いをされても、そんなに仲良くないが?と思ってしまう。本来0から構築するものを、すっ飛ばして15くらいからスタートしてる感じ、どうもメイクセンスしない。
お互いの共通の先祖に物凄い財産があって、後々穏便に分与手続きが済むような関係を築いておいた方がいい等、仲良くするメリットがあるならまだ分かる。でも、うちにはそんなものない。
血が繋がってるというだけで、人間は情を持てるらしい。

家族もそう。よく家族は理屈じゃないとかいう。血が繋がっているだけで、感情を持つらしい。私は家族という関係の人から、執拗に感情を向けられるのが苦手だった。家族だからと言われても、ピンと来なかった。
小学校の頃、クラブ活動で親に一言メッセージを作るイベントがあった。「部費を払ってくれてありがとう」と書いたら、大人の事情で「お弁当を作ってくれてありがとう」と検閲された。他の子は検閲されることなく、「いつも応援してくれてありがとう」とかだった。ウケた。今になっては社会性のある言葉にしてくれたと分かるが、当時は嘘をついた気分だった。どうやら、そういうふうに思うのが普通らしい。ここでも家族の普通の存在を認めた。

兄弟の結婚式にも、当然のように呼ばれた。兄弟なんだから普通に呼ぶよ!と言われた。正直兄弟なる存在が結婚しようがしまいがどうでもいい。別に特別不仲だったとかではないが、結婚をお祝いするような仲じゃないと私は思っていた。でも、世の中の普通は家族なる存在を式に呼ぶらしい。

今回は家族まわりのことを書いたが、それ以外でももちろん普通の存在は感じる。やっぱり普通はある。でも、普通じゃないこと=悪いことではないと思う。しばしばイコールになることもあるが。
あなたと私は違うっていう、それだけのことなのに、たぶん「普通」は、言葉以上の意味が含まれすぎているから難しいんだろうな。





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