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発達障害は邪魔を弾くための言葉

発達障害、ADHD、ASD、LD、境界知能、グレーゾーン、、、色んな言葉が浸透してきた。主に良くない意味で。

これらの言葉にポジティブなイメージを感じたことは正直ない。有名人が公表しているのを見ても、ナルホドって感じの人たちだからその言葉に対してイメージが回復することもない。だいたい自分の事じゃないから知ったこっちゃない。
自分はADHDであるって診断されてない人が使っている場合だって、別にそれがポジティブに捉えられることはない。
本屋に行くと大量の発達障害の本がひとつのコーナーとして置いてある。どれを読んでもしっくりこなくてうんざりする。理解を求める本が不理解も生んでいる気がする。とりあえずどれもポジティブな気持ちにはならない。啓蒙って簡単じゃないんだな。

浸透して理解している人が増えているのかもしれないが、その言葉に拒絶反応を示す人も増えている。
あの人発達障害があるんじゃない?そういう何かは絶対あるよね〜と職場で噂をしたり、採用の時にその傾向がある人を排除する為の適性診断なんてものを導入したり、そういう世界を私は見てきている。

私は、発達障害を理由に婚約者の家族から結婚を猛反対されて、婚約者にも子供の遺伝がどうとか言われて婚約破棄をされた。
この説明で表現しきれない沢山の排除を経験してきた。

これらの言葉に希望なんて見た事がない。なんでこんなに流行っているんだろう。みんな何がしたくて、どうして行きたくてその言葉を使うんだろう。

その言葉を用いて人生が明るくなる人なんているんだろうか。みんな必死でどうにか言葉を探して使っているだけで、建設的な利用の仕方を見つけられてない気がする。
もちろん自己承認欲求を満たしたり、福祉や医療の制度の利用に使ったり、使い道は何個かある。けれど、自分の人生をポジティブに持っていく時に使う言葉だと私は思わない。人生をポジティブにしていくのはそういう言葉じゃなくて、健常者と変わらない何気ない言葉だ。それは映画の登場人物のセリフかもしれないし、偉人の言葉かもしれないし、身近な誰かの言葉かもしれない。何より、自分で何とかしようという気持ちがない限りはどうにもならない。
発達障害という言葉に何かを変えてもらおうとしているうちは変わらない、と私は思う。
「発達障害」は今のところ、誰かを排除する言葉だ。誰かと生きていくための言葉ではない。100年後はそうなっていたらいいけれど。
自分が生きていくための言葉はこれじゃない。もっと他に沢山あるんだ。本を読もう。出かけてみよう。人に会ってみよう話してみよう。ひとりで風に当たってみよう。
自分が生きられる言葉を探そう。

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