見出し画像

愚痴をこぼします。(2024/3/15)

今日の日記。
特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。

前回から日が空いてしまいました。毎日書こうと思っていたけれど、なかなか難しいですね。
今日の写真は教員採用試験に向けた対策講座でいただいたプリントの書き込み(学生の試験のためにこんなに丁寧に指導してくださるのは、本当にありがたい)です。

今日あったこと

・歯医者さんにいった。
虫歯で削った歯の銀歯ができたので、付けてもらった。
・お昼寝
たまにくる抗えない眠気に襲われて、、
・バイト
今日は本当に疲れた!!

今日思ったこと

僕は、ファミレスのフロアスタッフとしてアルバイトしているのですが、もう同じところで2年以上続けています。
正直しんどい。今日だってお客さんがたくさん来て大変で、最後の最後でレジにエラーが出て本来帰れる時間を1時間15分以上過ぎての退勤でした😭
でも、あと一年で大学は卒業だし、また1から仕事を覚える苦労を考えれば、もうこのままここで安住していた方が無難かな、という感じでダラダラ続けています。

それでもそれなりに楽しんでいる方ではあって、お客さんとの会話とか同じバイトの仲間との会話とか、大学とは違う空気感が僕は好きです。
たまのクレーマーには心がやられますが、「こういう人もいるのか」とか「こう言えばとりあえずは我慢してくれるのか」など、色々経験と思って踏ん張っていると、面白い。

よくも悪くも、国立教育学部の大学生の輪ではまず出会わないような人たちと出会えますし、僕自身“そういう“環境に身を置いて「いろんな人が(確かにこの社会には)いるんだ」という自覚を得たかったためにこのバイトを選んだということもあって、
まぁ、なんだかんだ楽しんでいるわけです。


それはさておき、飲食店のバイトって、
基本的に長続きする人は稀で、ほとんどの場合は1ヶ月続かずにみんなやめていきます。
だから、慢性的に新人さんが多い。
それはいいんだけど、
最近入ってきた新人さん(僕より5つくらい年上の方)の癖がすごい。

いろんなところでお客さんに粗相をふっかけて、激怒したお客さんに後ろから追われながら仕事をしてる、みたいな人です。
で、そのお客さんの対応をするのは、もちろん他の人。
それで僕も何度か彼に指摘をしたのですが、

「そんなことまで頭回らないですよ」とか
「ぼーっとしてるって言いましたけど(確かに僕が「ぼーっとしてたら仕事終わりませんからね」とは言った)、僕ぼーっとしてるわけではありません」とか、
僕の指摘はきれいに跳ね返されてしまいます。

もー!うるさい!!!!!!
って思います。


これは僕が頑ななのかもしれませんが、
(ある特定のコミュニティの中で)自分よりも経験のある人に、何かを指摘されたら、自分はどう思うとか、自分は悪くないとかは甚だどうでもよくて、まずは「ありがとうございます」でしょ!!

なぜなら、「指摘をされた」という事実のみが重要だから。

基本的に一つの「社会」(この場合、バイト先の職場)には、その社会の「常識」があります。入ってすぐは、その常識をまだ知らないわけですから、その常識に適わない行動には指摘が入るものです。
むしろ、その指摘によってその社会の常識を知っていくわけです。

「僕はぼーっとしてたわけではありません」
というのは、どうでもいい。
重要なのは、
「ぼーっとしてる」と“思われている“ことだから。

その速さ、そのやり方では、「ぼーっとしている」の部類だから、
もっと早く動け、とかもっとこうしろ、ということを指摘しているわけで。

実際、僕がいるお店は、“普通に“歩いていたら、遅い。
だから最初に言われるのは、「もっと早く歩こう」です。

僕も何度も何度も言われましたが、
最初のうちは、どれだけ頑張っても「遅い!!」と言われ続けます。
それがそのうち言われなくなって、代わりに
「一つ仕事しに行ったら、そこでもう一つ仕事を見つけて2つこなして帰ってこい!」と言われるようになります。
それもそのうち言われなくなって、代わりに
「暇なんやったらここにもあそこにもやることあるやろ!自分の役割だけやって満足するな!」と言われるようになります。
そうやって最初の半年までは、基本的に怒られっぱなし。
それでも少しずつ「怒られない基準」を超えてくると、やっと信頼されてくるわけです。

僕が信頼されるのは、きっとその「常識」をマスターしたからなのだろうと思います。
だから、最初は常にその常識を体で覚えるために指摘を素直に受け入れて、「はい、ありがとうございます」と言い続けるのが仕事だと、僕は思います。
(そのとき、「すみませんでした」という人もいるけれど、そういう人には「ありがとうございます」と言いなさい、と指摘するようにしています)

その常識を100%理解して、それを十分こなせるようになって初めて、
「僕はこうした方がいいと思う」と主張できるものなのではないでしょうか。

社会における自分らしさとは、常に新たに産み落としていいわけではなくて、100%の信頼を得ている人が120%をするから光るんでしょ!!
あなたは今20%にも満たないよ!!

と彼に言いたい。


ん〜。なんだか最初に書こうとしていた内容を置き去りにして愚痴を垂れてしまいました。目を汚してしまい、申し訳ありません。

本来書きたかったのは、
そういうのはしかし、「自分が他者や自分以外のことをコントロールしようとしているから」それができないことにイライラしてしまうのだ、というのがお釈迦さまの心で、だから、まずはその「どうにもならなさ」を受け入れるところから始めよう、というのが、基本的に仏教の説く教えのスタンスだろうと思います。

だから、「自分の言い方が悪かった」とか、「どのように言ったら伝わるかな」とかと、自分の行動を振り返り、自分から変わっていこう、という心が大切だ、というのが一般によく言われている行動術です。

ただ、結局それも「どうにもならなさ」に還元されてしまうのでは?
ということ。

言い方を反省したり、自分を変えてみても、そこには新たな(あるいは元からある)「どうにもならなさ」にぶち当たって、結局どこまでも自分を擦り減らし続けることになってしまうのではないか、と思います。


本当にまとまりのない文章だな。
また今度、こうしたことについて詳しく考えていければいいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?