人の美しさについて(2024.5.15)
今日のひとこと
僕はメモにこういう臭い詩を書き留めてしまうというどうしようもない趣味があるようで。
これは、去年の夏頃に書いたものらしい。
人の美しさについて
人は醜いものだ。
人はそもそも醜いのだ。
羨む心、妬む心、嫉む心、貪る心、憤る心、滾る心、騙す心、憎む心、恐れる心、蔑む心、疼く心、犯す心、、、
全てが人の醜さに繋がる。
でも、その醜さは同時に美しさでもある。
人は常に異常な狂おしさを生きている。
その歪んだ心と理性との微妙な釣り合いが人の美を醸し出す。
その歪みを取り除いたり、理性で覆い隠して見えなくしたりするのは、人の美しさから遠くかけ離れたことだ。
人の醜さを隠し通して生きようとする軽薄な理性は、何より汚いのであって、それは本当の意味で醜いのだ。
真っ白に塗り固めた人間ほど、愚かしいものはない。笑えもしない、悲しいほどに汚い。
それはもはや権威を失ってもなおそれらしく振る舞おうとする貴族のように、滑稽でなんの厚みもない。
人はそもそも醜いのだ。
その醜さを愛して、歪んだ自己を受け入れて、心の内で燻る獣を見つめて生きることで、人は世界の本当の色を見ることができるようになる。
本当の世界とは、背筋が凍るほど深く濃い色をしている。色が”空気”を無視して自己に投げ込まれてくる。それは途端に”見ている”世界ではなくなり、常にイリヤ的に映し出されるものになる。
人は常に醜いのだ。
その醜さと理性とが絡まり合って、ほとんどどうしようもない異常な感性が成り立つ時、人はどこまでも醜く、なお何よりも美しいのだ。
理性が人なのではない。
理性との葛藤が人なのだ。
理性が彼を人足らしめるのではない。
理性への冒涜の企てが、彼が人であることを保証するのだ。
僕は醜いんだ
その醜さが僕を孤独にさせるんだ。
人は醜さを非難する。
だから醜い僕は死ぬまで透明なんだ。
僕は、三島由紀夫は血で真っ赤に染まるまで、いやもしかすると今もなお透明なのだと思えてならない。
人が見ている強烈な三島の姿は、彼の造形物に過ぎない。彼はその無骨で繊細な芸術の中で1人孤独だったんだ。
僕なら、三島由紀夫が見えるかも知れないと思った。
傲慢かも知れない。
どうかな。
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