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自分のために考えるために(2024/3/8)

今日の日記。

特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。
(今日は写真を撮るのを忘れたので、本棚を撮ってみました。僕人の本棚見るの好きです。その人の心が見える気がして。でも逆に自分の本棚は友達なんかにはあまりみられたくない、とか思っちゃったりもします。)


今日あったこと

・歯医者さんに行った
虫歯の治療をしていたので、今日はその削ったところの銀歯を作るための型取りでした。やっぱり虫歯はめんどくさいことしかないね。
・今日もバイトが始まるまで読書
最近は本当に勉強する気が起きない。教員採用試験に向けて周りはコツコツ頑張っているようだけれど、、
正直本を読んでいる方が楽しい。
・バイト
今日は疲れた。


今日について

最近は哲学についてますますのめり込みたい気分になって色々と調べてみているのだけれど、
基本的に哲学を初学者に向けて説明するような動画やブログでまず示される紹介文は
「哲学ってよくわからないよね、僕もそう思う!」
と言うやつ。

もちろん哲学に対するハードルを下げるためにあえて言う文句であることは自明であり、そこに何かぬかすつもりはさらさらないのであるが、
哲学的な問いはそもそも胡散臭くなりがちで、だからこそよく分からないものと認識されがちだ。

いつも一緒にテキトーな会話をする人間が、
急に「死ぬことについて」とか「在ることについて」とかと言い出してきたら、まずは頭が正常なのかを疑わなくてはならないのであって、なるほど異常だ。

なぜそれが異常なのかと言えば、日頃の生活とその生活が与える問いの方向性からかけ離れた問いだから。

普通人が生きる上で、急に途端に「死ぬこと」が主題化されることはない。
人は自らが関わる生活の上でのみ思考が可能となる。だから、例えば教師はよく子どものことを考えるし、色々なことを子どもや教育との連関の中で捉える。
死を考えたがる人というのは、死という観念がすぐそこに知覚されているからこそ死を主題として問いに立てるのであって、ただ急に途端に死についての問いが立てられるわけではない。

それなのに、普通哲学はそうした問いが何もないところからふと立てられるかの如く示される。
でも、そんなことは決してない。大きな思潮を成した哲学者だって、常に彼らの生活の中で彼らが主題化するべくして立てた問いがあり、それは常に彼らの生活の有り様に依拠している。だから哲学の思想のみを理解して、その思想を成した人の人生を見ないのでは、それは何も理解していないのと同じだ。

つまり、何が言いたかったかと言えば、
哲学というのはなにか生活とはかけ離れたものではないし、むしろそれは自分自身の生活と何より密接に関わっている。
あるいはそれは、自分自身の生活に密接に関わりを持たないのでは何も考えられていないのと同じだ。

だから、本当の意味で自分のために哲学を行いたいのであれば、何について考えたらかっこいいかな、とか何について考えるのがそれらしいかな、とかと浅はかなことを言うのでなしに、まずは自分自身の生活と、生きてきたその軌跡とをきちんと噛み締めて、自分の未来を志向するところから始めるべきだ。

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