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荷台に積まれる真顔の旦那になりたい/日記

今日は、通りが勝った道の脇に、農作業をした老夫婦(尊敬語としての老夫婦)がいた。
にこにことしたおばあちゃんが、野菜を運ぶ際に使われる台車?のようなもので、真顔のおじいちゃんを運んでいた。
きっとおじいちゃんは疲れていたのだろう。
いろんな場面で思うが、ぼくはこんな旦那になりたい。

あまりにもその光景が可愛くとて、次通りかかる際は、写真撮影の許可を取ろうかと思うほど記録しておきたい幸せな瞬間だった。
そうしよう。見かけたら絶対に話しかけてみよう。

話は戻って、ぼくは旦那になりたい。そんな老夫婦の1人になりたい。気遣いでのレアな光景なのか、日常なのか、おばあちゃんおじいちゃんの夫婦の間には、ぼくが理想とする幸せだとか、穏やかさだとかいうものが垣間見れる瞬間が多々ある。瞬間というか一時というか。
その時間がとても素敵で、いいなあと思う。
同じことを若い恋人らがしていてもきゅんと来ないのに(こない確率の方が高い)、なぜ老夫婦がすると穏やかになるんだろうか。
ぼくは前々から、よく彼らにとっては日常な瞬間にきゅんとすることが多い。
それは、自分とは異なる経験の豊富さと、自分の理想とする穏やかさみたいなもののどちらもを持ち合わせているからだと思う。

きゅんとする瞬間はぼくには何度かある。海でぼーっと本を読むおじいちゃんとか、無言で釣りをするおじいちゃんとか、にこにこと買い物をするおばあちゃんとか。
経験を積んでもなお、丁寧な生活をしているかざらなに惚れ惚れするのだ。
ぼくはあと60年後、そんな生活ができるだろうか。
こんな丁寧さや飾らない空気感が欲しい。心の中では、ずっとそんな思いがあり、今日は「荷台に積まれる真顔の旦那になりたい」と思ったのだろう。

ぼくはピカソが大好きだ。ぼくの父がピカソに激似なこともあり、幼少期からどこかピカソとは縁があると勝手に思っている。
そんなこともあり、芸術の沼にズボッとハマっている最近のぼくは「ピカソの人生をなぞりたい」といろんな人に叫びまくっている。
天才画家になりたいという意の叫びではなく、単に“72歳で愛人をつくり、80歳で結婚したい”というだけである。
結婚や愛人は道具ではないので、よくない考えだなと思うけれど、80歳で結婚したいという思いも「今は結婚したくないけど、年を経て旦那になりたい」という穏やかさを求める気持ちが作用しているのだと思う。
恋人をつくり、愛人をつくり、子どもを育て…という一種の生命活動を道具として利用する気はさらさらないが、やはり、穏やかな人生、人、できることなら旦那になりたいのだ。
いつかそんな日が来たらいいなと思う。
妻ではなく、旦那であるのにもしっかりとした意味があるが、それはまた次回にしたいと思う。

自分が当たり前だと思っている行動も、相手から見たら驚くものかもしれない(いい意味でも、悪い意味でも)
それが「ありがとう」と言われる行動ならば、つづけてみるもの一つの手かもしれない。
前に詠んだこんな短歌があるので、置いておこうと思う。
少しだけでも、自分と誰かの心の救いになればいいと思う。

「1人でも楽しいことがないのなら、一緒にいるのもいい選択肢」

少しは日記らしくなっただろうか。
今日も古着屋を巡った。ネクタイを買い、挨拶をして、文房具を買い、パスタを食べ、友人にプレゼントを買った。幸せだ。
一般展覧会ですら1日かけて鑑賞するのにルーブル美術館に行ったら何日出てこなくなるだろうかとも考えた。
明日から、また自分で巻いたストレスを浴びる日常が戻ってくる。頑張りすぎない程度に、頑張っていこうと思う。

では、また。

おわり。
 


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