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【しおりん雑記メモ】言語の限界と物語論について

はじめに

最近、ふと流れてきたおすすめのツイート(ポスト)で魚座が感じている「言語の限界」に関する文章を見てふと考えさせられた。

私は魚座ではないけれど、何となく言おうとしている感覚は理解できる…気がする。

普段小説を書くとき、どちらかと言えば論理的より感性で自分の思考を言葉で表現し、紡ぎ出すことが多いから、この方のような難しさを感じたことは無いのだけれど、「言語の限界性」については長く頭の片隅で考え続けているテーマだった。

すなわち、小説の中で作者の感じている世界を全て厳密に言葉を用いて表現することの限界性である。

もちろん、考えていること感じていることを全て表現することなど不可能だし、小説としてもナンセンスだし、全てを言葉で表したいとは別に考えていない。

ただ、小説を書き始めた時から大切にしている「現実至上主義」という執筆スタイルには限界と矛盾があると考えている。

もしかしたら私は、魚座の人間ほど言葉について割りきった考えをできていないのかもしれない。

言葉で「伝わらない」こともあるし、全てを伝える必要はないという理屈は理解できる。

しかし、小説家というのは言葉を使って微細な光景や心情を表現することに心血を注ぐ。

限界と分かっていても、限りなく自分の見ている世界を表現したいという欲求こそ、小説を書く醍醐味であり原動力ではないかと私は考えている。

長年考えていたこととはいえ、まだ思考が整理できていない部分もあるが、備忘録も兼ねて現時点での考えをnoteに記載していこうと思う。

前半では20世紀の哲学者であるウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後の一文を元に、言語の限界について考察する。

それを踏まえて後半では小説のスタイルである「現実至上主義」について、"書き手"と"読み手"の視点から考察していく。

『論理哲学論考』における言語の限界

講義ではないのでウィトゲンシュタイン(1889-1951)について詳しく紹介はしないが、さらっとだけ説明しておきたい。

オーストリア出身の哲学者で、言語哲学や分析哲学という分野で現在でも英米において影響を与えてた人物である。

言語哲学とはその名の通り、「言語とは何か?」と言った本質的なことや、文法、言葉そのものの意味を探求するような哲学である。

1921年に出版された『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)はウィトゲンシュタインの前期思想と呼ばれ、"哲学の問題"を"言語の限界"と明確に区別することで、これまで議論されてきた問いに終止符を打った(後年、一部『論考』の誤りを認めて修正を余儀なくされるが。)

哲学の世界で真偽を問える文を命題と呼ぶが、『論考』は短い命題を論理的に組み合わせた書物である。

その中で、言語の限界を端的に、深淵に表現しているのが『論考』を締める最後の一文であろう。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

ウィトゲンシュタイン著野矢茂樹訳『論理哲学論考』
岩波書店、2003,8,19 p.149

ここで述べられている「語りえぬもの」とは、我々が"思考できる外"にある命題である。

例えば、「死語の世界は存在するか」と言ったある種確かめようのない超越的な問いや、「丸い三角形は何色か」みたいな明らかに論理的な誤りがある問いについて、ウィトゲンシュタインは思考の外側にある問題として線引きをしている。

要するに、思考の内側と外側を完全に区別し、哲学の問題は"内側"を扱うものであり、"外側"にあるものは「語りえない」というのが『論考』の主旨である。

これは、小説を書くという視点から見てもある程度は正しいのではないか。

基本的にというか、小説の物語とは意識・無意識に関わらず作者の思考の中身を言葉で表現したものであり、"内側"で生じたものしか扱わない。

言葉で表現できるということは、何かしら思考できるからこそであり、人智を越えた概念や論理的に誤りがある文章を小説で扱うことはない。

例えば小説の中で、「丸い三角形の形をした拘束具」と書かれた一文が出てきたとして、あなたはこれを思考することができるだろうか?

人智を越えたもの、例えば「死語の世界」に関する小説やアニメなどは多々存在はするが、それらは我々が思考できる範囲の中でフィクションという形に落とし込んでいるものであり、"外側"の思考ではないだろう。

それがどんなフィクションであれ、現実世界の中で人が見ているもの、感じているもの、考えているしか表現することはできない。

小説を書くという作業は、作者自身にある内側の思考を切り取り、言語レベルで感性的に表現し、再構築するものであり、個人的にはある種のアートに近しいものではないかと考えている。

「現実至上主義」という小説の矛盾

小説家の作風は様々存在するが、私は「現実至上主義」というスタイルを採っている。

すなわち、くすぐり小説においても限り無く現実に近い設定や心理描写を重視し、また現実世界に存在する読者自身に当てはめて読んでもらえるような作品を理想として執筆している。

冒頭の魚座の話に戻るが、私は小説を書く際ある種の自己矛盾を感じることがある。

すなわち、「私の見ている世界を伝えたい/伝わらない」という二律背反的な感覚と表現できるだろうか。

しかし、小説において思考の内側や見ているものを全て伝えることはできないし、伝える必要もない。そこはツイート最後の文に同意できる部分である。

例えば、「9月18日15時25分53秒○○地区○○のマンションにある6畳の寝室にある○○製の白いベッドで……」などと事細かな状況説明が記載されていたら読者としても読む気が失せるだろうし、書く方も面倒である。

哲学書と違う小説の良いところは、正解は存在せず読者に解釈を委ねることができるところである。

もちろん、作者として伝えたいことは明確に存在している。しかし、それを正確に表現することは不可能であり、それこそが言語の限界であると言えるだろう。

だが、限られた言葉や表現を駆使して小説を書くことこそ、醍醐味であり楽しいところである。

様々な語彙や表現、隠喩、直喩、語感やリズム。

小説を書くとは、現実世界に生きる作者の内側にあるものを言葉で外側の世界に表現することだと思う。

「語りえぬもの」へと「語る」こと。

それは自己の表現であると共に、言葉を媒介として読者自身に語りかけることでもある。

もちろん、同じ言葉でも読者によって感じ方や捉え方は様々である。

作者にできることは、「言語」によって表現した小説を提示することまでであり、それをどのように解釈し受け取るかは読者自身に委ねられる。

「言語」を媒介として読者の中にあるフィルターを通して解釈されることは、限界ではなくある種多様な"可能性"が生まれることなのかもしれない。

現実世界のありのままを言葉で表現することは小説において不可能であり、これを限界と捉えることもできるが、限界があるからこそ小説における多様な表現や読者による解釈が可能になるのではないだろうか。

おわりに

雑記的な考えを整理するつもりが、書いている内に自分でも何言ってる分からなくなってきたところもあるので、論理的に見えてちゃんと読むと論理的ではないところもあるかもしれないなと今思いました。

「言語の限界」と物語の関係性は、今後も小説を書く上で避けては通れない問いだと思うので、また改めて整理して考察したいなと思います。

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