【SS】とっておきの果実(1381文字)
はじめて先輩とふたりで飲みに行ったのはいつだっただろう。
たしか会社近くの、小汚い大衆居酒屋だった。
あのときは緊張していたし、沈黙が怖くてお酒を次から次へと頼んだ。
つまらない奴だと思われたくなくて、アルコールの力を借りて精一杯明るく振舞った。
先輩はから回る私を見て愉快に思ったのだろうか。
その日からたまに「今日飲みにいく?」と誘ってくれるようになった。
今では月に2回くらいのペースで飲みに行く仲になった。
たいていは駅前の飲み屋街をぷらついて、気楽なお店に飛び込む。
先輩も私も、堅苦しい場所は苦手だ。
会社近くで飲むので、当然同じ部署のひとに見つかったりする。
そのせいで先輩と付き合っている疑惑を持たれているらしい。
「付き合ってるの?」と聞かれたとき、私は否定する。
だって付き合ってないもの。
先輩はどうなんだろう。
肯定されても否定されても、少し悲しい。
この気持ちは、なに。
***
今日はいつもとちょっとだけ違う。
落ち着いた雰囲気のバーのカウンターに並んで座っている。
何となくふたりとも、今日の気分は居酒屋じゃなくてバーだった。
先輩と私の好みは全然違うけど、気分とか波長みたいなものは合うことが多い。
店内は薄暗くて、ほどよい音量で流れるジャズが耳に心地よい。
先輩がおすすめしてくれた「ホワイト・ルシアン」は甘くて美味しい。
少し頭がふわふわする。
カルーアと生クリームに騙されてついつい進んじゃうけど、ウォッカベースだから度数は高いみたい。
レディーキラーに分類されるのかな。
でも、先輩にそんな気はない。
その気があれば、これまでいくらでも機会はあったもの。
右に座る先輩は「サイレント・サード」というカクテルを飲んでいる。
さっき一口もらった。
レモンの酸味が効いていて、彼にぴったりのカクテルだと思った。
グラスを持つ先輩の長い指を眺める。
そのまま視線をてくてくと登らせて、先輩の横顔を見つめてみる。
左から見る先輩はいつもより少しだけアンニュイなかんじ。
うそ。いつもと変わんない。
アンニュイって使ってみたかっただけ。
まつ毛が長い。
鼻筋が通っている。
カクテルを飲むたび、先輩の喉ぼとけがうごく。
気づけば先輩の顔すれすれまで自分の顔を近づけていた。
美しいものには近づきたくなる。
彼は少し驚いた顔をする。
「びっくりした。キスされるのかと思った」
「...…しようと思ったけど、やめました」
「してくれてもいいのに」
「もったいないから、取っておくんです」
「イチゴは最後に食べる派、みたいな話?」
「そうですね。イチゴじゃなくてリンゴかも。でも最後まで食べません」
「どうして?」
「...…秘密です。腐るまでずっと取っておくんです。腐らないでって願いながら」
「ふうん。腐らないといいね」
「たぶんわたし次第ですから、頑張ります」
こうやって大した意味のない、抽象的な会話をするのが好きなのだ。
この時間を失いたくない。
私にとって先輩は、禁断の果実のようなもの。
誘惑を振り切るように、目の前のお酒をひとくち口に含んだ。
私の喉ぼとけは、動かない。
(完)
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