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恋という愛と真逆を経験することで愛を学ぶのではないか

「恋愛」という言葉をふと不思議に感じた。

わたしは、恋と愛は真逆のものだと思っている。

だから、まるで「闇光」「黒白」のような言葉だと思った。

だけど世間一般の「恋愛」という言葉に対する認識は、
恋≒愛だと思う。

恋と愛の違いが分からないという疑問もよく耳にする。


私もずっと恋と愛の違いが分からなかったし、
恋と愛の違いをネットで検索したこともある。

20代後半の頃からかな、
私は「愛とは何か」をすごくすごく知りたくなった。

必死に愛とは何かの答えを見つけようとしていた。

愛は何かを見つけようとする過程の中で、
愛が何かのすべてを理解するには、経験・体験が必要で、
それは日々の中で少しずつ積みあがっていくものであり、
長い年月をかけて「愛」の学びをしていくものだと気付いた。

同時に、すべての出来事は愛を学ぶために起きていることも理解した。


だからまだまだ「愛のすべてを理解した」となんてとても言えないけれど、
今の段階で私が感じていることとして、
世の中の「愛」の認識は実は全く違うのではないか、ということ。


「恋愛」って甘くて優しくて幸せで、
まるで愛の代表のように思われているけれど、
世間一般の「恋愛」って「恋」の要素が強いようにも感じる。


わたしは、恋と愛は全く別もので、むしろ真逆だと思っている。

いろんな要素があるから、一概に恋はこれで、愛はこれです、
とは言えないけれど、
例をあげるとするならば、

「恋」は、自分の中にある愛が感じられず、
自分が何者であるかが分からないから、その不足感を埋め合わせるように他人に求めるものなのではないかとわたしは思う。

何者でもない自分が価値がないように思うから、
世間一般に価値があると思われている「顔が整った人」や「お金がある人」
「肩書がある人」「人気な人」から”選ばれたという事実”が欲しくなったり。

自分の中の愛が感じられないから、愛に飢えて、愛を求めて
「好き」「愛してる」の言葉を求めたり。

自分のことを自分で大切にできていないから、
「大切にしてくれる人」「楽しませてくれる人」「喜ばせてくれる人」に好意を持ったり。

まるで不足している何かを埋め合わせるように、他人に求めていく。

恋人に不足感を埋めてもらえるように求めて、相手がそれを返してくれる間は幸せだけど、そうではなくなった時に、「何で?」「どうして?」とコントロールが始まることもある。
自分を信じることができていないから、相手を信じることもできなかったり。


「愛」は自分の中の愛を感じ、自分の愛で自分を満たし、
自分が何者であるかを理解した上で、人を自分の愛で包んであげることなのではないかな、と今の段階のわたしは思う。

恋愛における愛はパートナー愛であり、
「お互いに」愛し合うことが重要で、
お互いが自分の愛で自分を満たせていて、自分が何者かを理解した上で
共に生き、お互いに助け合い、尊重し、愛し合うということが、
幸せなあり方なんじゃないかなぁと思う。

愛がすでに自分の中にあるから、相手に求めないし、
自分の中の愛を感じることができるから、
相手からの愛を感じることができる。
自分が何者であるか理解しているからこそ、
相手を信じることができるし、
相手を自由でいさせてあげられる。


だけど「愛」を初めから理解している人なんてほんの一握りの限られた人で、
みんな愛と真逆の「恋」を経験することで、「愛」とは何かを学んでいるのではないかと思う。


「恋愛」という言葉は、恋を経験して愛を学ぶから「恋愛」というのではないか、わたしはそう感じた。


そんなわたしも「恋」を経験することで、「愛」を知りたいと思うようになった1人である。


恋愛・結婚・パートナーシップは「愛」を学ぶ究極のギフトのように思う。


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