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他者ある、故に我あり。

「我思う、故に我あり。」という言葉を聞いたことがあるだろう。哲学者デカルトの言葉だ。私はこの言葉を哲学の講義で聞いた時、感銘を受けた。確かに、目の前にあるものは幻覚かもしれない。自分のほっぺをつねっても、夢であるかもしれない。絶対的数学の知識も、神が私たちを騙しているかもしれない。そんなふうに考えたデカルトは、いや、こんなふうに色々と疑っている自分は存在すると言える、と気づく。この話を聞いた際、私は自分の中で一生揺るがない真理を見たような気がした。家に帰って、自分で1日あったことを振り返りながら、この一人で色々なことに思いを馳せる時間こそ「私」であり、「我あり」なのだと考えていた。

自分とは何者か。そんな問いを学生時代に考えていた。家の中で一人思いを馳せる。私とは。しかし答えは出てこない。私とは、、。突然霧が私の前に立ちはだかる。だが、家でこうして考えている自分こそ「ホンモノ」だ。だが言語化できない。ふと、ジンメルの本を読んだ。自分とは、社会の局面局面でさまざまな顔を持つ。家の外にいる自分は常に何者かを演じている。そうか。では、家の中の自分が本当の自分で、外にいる自分は偽物だ。そんなふうに考えていた。

私は自分とは、家の中で思いを馳せている時の私のことを指すと思う。友人に告げた。私は、人によって、場所によっていろんな顔を持つけど、ホンモノの自分は家の中で考えている時の自分なんだ。友人は賛成していない顔つきだ。私はそうじゃないと思う。私は、家にいるときの自分も、外にいる時の自分も「本物の私」だと思う。でも、例えば、バイト先で接客をしている時の自分がホンモノの私とは、私は思えないよ。まるで仮面をつけているみたいな感覚がある。だけど、接客の場で被る仮面のあなたも、それがあなたであることには変わりはないよ。私の前にいるあなたも、親の前にいるあなたも、恋人の前にいるあなたも、全部ちょっとずつ違うでしょう。でも、全部あなただよ。じゃあ何が違うのかって。それは相手だよ。相手があなたをつくってるんだ。親によって、親用のあなたは生まれるし、恋人によって、恋人用のあなたが生まれるんだ。そう考えるとさ、自分とは何かって、自分で考え続けても見つかるものではなくって、人と話したり、本を読んだり、自然を愛でたりして、何か「他」のものと触れることで、自分が見えてくるんだと思うんだよ。さあ、どう思う。じゃあ、、家の中で考えている自分は何者なんだ?そこには相手はいないし、自然もないよ。自分だけしかいないじゃないか。でも、あなたが一人で考えていることは、「他」だよ。例えば、1日のことを振り返っているあなたは、あの時彼にああ言えばよかったかなとか、あの人はなんであんなことをいったんだろうとか、あなた以外のことを考えているでしょう。つまり、思考の中には「他」がいるんだよ。つねにあなたは、「他」を考えているんだ。なら、家の中で、自分について考えている時。これはどう説明するの?その時に考えている自分は、過去の自分、未来の自分だよね。私とは何者なのかって考えているとしても、それは私というものを「他」として認識しているときにしか考えられないんだよ。自分のことも人間は「他」として認識できるんだ。だから、結局「他」なんだよ。自分を見つけるっていうのはさ。

デカルト、ごめん、あなたの真理はもう私の真理ではなくなったよ。友人の哲学が私の中の真理になった。確かに、常に「他」があることで「自」が見つかる。私はドビュッシーの音楽を聴いた時に、この人の曲好きだなと感じた。ドビュッシーの音楽がなかったら、私は自分の好みの音楽を知ることはなかった。「他」のおかげで「自」が見つかるんだ。好きな人だってそう。あなたの好きな人のタイプは?と聞かれて、優しい人と答えても、付き合う相手は優しいだけの人ではない。相手がいて初めて、自分のタイプに気づく。私はずっと顔が濃い人が好きだと思っていたけれど、付き合う相手はみんな塩顔だったとか。

そう考えると、外に出ていくことは素晴らしいことだ。自分が見つかるきっかけになる。さらに、相手に自分を見つけるきっかけも与えられる。デカルトのおかげで、私は自己を見つけた。しかし、また別の友人のおかげで私はまた別の自己を見つけた。デカルトは今はもう生きていないけれど、もし会えるのなら私の考える「私とは何か」を伝えたい。
「他者ある、故に我あり。」と。


ではまた。


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