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【偶像崇拝】信仰における「模様」の役割。

「偶像崇拝」の反対ってなんだろう?

皆さん、おそらく「偶像崇拝」という言葉を
一度は聞いたことがあるかと思います。
なぜなら社会の授業で習うキーワードだからです。

社会の先生が「世界三大宗教」を教える際に、
「イスラム教では偶像崇拝を禁止しているだよ。」
おっしゃっておりました。

そのときに子どもながらに、
「偶像崇拝」の反対ってなんだろう?
考えておりました。

ふと思い出して、
今更ながらネットを使って調べてみると
無いんですよね。
反対の言葉が無いんですよ(笑)

あくまで信仰の形式だから、
反対語というのは無いとか
そんなことが書かれておりました。

でも、ボクとしては
じゃあ、イスラム教の方々の信仰スタイルは
なんと言うんだろう?とか気になりはじめました。

そこで行きついたのが「模様」という存在でした。

イスラム教が盛んな地域では「アラベスク模様」とか、
タトゥーの模様とかで「トライバル模様」とか、
なんかイメージがありますよね?

そうなんです。
「模様と信仰」は深く結びついているようなんです。

そこで「崇拝と信仰」「偶像と模様」について
ボクなりに深堀ってみたいと思います!

ちょっとデリケートな話題ですが、
あくまでボクの妄想と捉えてくださいませ!

それでは、ヒアウィーゴーーー!!!

①「偶像崇拝」とはなんだろうか?

まずですね、「偶像崇拝」について
振り返ってみましょうか。

「偶像」ってなんだよ?」と
思う方がいるかなと思います。
なのでまず「偶像」についてですが、

「偶像」は神仏などにかたどり、
信仰の対象として作られた像。
崇拝や盲信の対象となるもののこと。

ということらしいんです。
つまり、信仰の対象を「モノ」に落とし込むことです。

そして、「偶像崇拝」というのは、

偶像を信仰の対象として重んじ尊ぶこと。
神仏を具象するものとして作られた像などを、
信仰の対象としてあがめ尊ぶこと。
また、あるものを絶対的な権威として無批判に尊ぶこと。

絵画・彫刻・自然物などの可視的対象物を
信仰の対象として崇拝・礼拝すること。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などでは
厳しく否定される。

とあるんですよ。

つまりですね、
信仰の対象を「モノ」に落とし込んで、
その「モノ」を崇拝することみたいなんです。

ある意味、
「キリスト像」「十字架」「宗教画」「仏像」なども
偶像崇拝といえる訳です。

そして、最後の一文が結構衝撃的なんですよ。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などでは
「偶像崇拝」を厳しく否定される。

「え?!そうなの?!」と驚きませんか?

※「偶像崇拝」についてのwikiです。

②原始宗教では「偶像崇拝」を禁止していた。

意外や意外、「イスラム教」だけではなく、
「ユダヤ教」「キリスト教」偶像崇拝を禁止しているんですよ。
面白いことに「仏教」を始めたあの「ブッダ」
偶像崇拝を禁止していたみたいなんです。

(※正直いうと、何千年も前のことなので諸説あるかと思います><)

でも、皆さん「宗教」とか「信仰」と聞くと、
あの「神の子」や「仏様」とかを思い浮かびませんか?

「え?!もろ偶像崇拝しとるやんけ?」と、
めちゃんこ不思議に思いませんか?

この部分はですね、宗教の歴史と繋がっているんですね。
ボクなりの持論があって、めっちゃ語りたいんですが、
今回の話が逸れてしまうので割愛いたします><

この矛盾を一言で言うなら、
「みんなを救うためについた方便(嘘)」
なんですね。

偶像崇拝は禁止にしたいが、
宗教を拡大して人々を救うためには、
良くも悪くも「偶像」の力が必要だったんです。

更にあえていうなら、
宗教をはじめることになった「始まりの人」は、
みんなを救いきるためには
「最後の最後に「偶像崇拝」が足枷になること」
わかっていたんだと思います。

だからこそ、「偶像崇拝」
危険視していたのかなと思います。

③そして「模様」が発展し始めた。

一方で「偶像崇拝禁止」を徹底するイスラム教では、
「アラベスク模様」が発展します。

ざっくり言うと、
対象となる偶像は作れないけど、
これを見ると信仰心がわくシンボル(模様)
を作ったんですね。

※「アラベスク模様」についてのwikiリンクですmm

また、タトゥーのジャンルとして
有名な「トライバルタトゥー」があります。

「トライバル」とは「部族や民族」という意味があります。

元々はポリネシア地域などに存在する部族間で伝承されてきた、
「土着信仰」に基づいた身体装飾なんですね。

また、部族の戦士の通過儀礼(名誉の印)の美学、
「精神的信仰」とシンボルのために
伝統的に使用されていたりしました。

このように「信仰と模様」はとても結びつきが強いんです。

あとですね、
友達と相談したり、たくさん調べたりする中で、
「アラベスク模様とは信仰を遠ざけるものではなく、
信仰の本質に近づくものである」

という面白い言葉があったんです。

④信仰の根源は「自分と向き合うこと」

なぜ、面白いと感じたかというとですね、
「信仰の本質」の話に通じるので、
ここで別の話を少しだけさせてください。

以前の投稿で下記の内容を書いたんですよ。

創価学会では、
めっちゃ達筆に「南無妙法蓮華経」と書かれた
イケてる掛け軸に向けて、
「南無妙法蓮華経」を唱えまくるのが

創価学会の信仰スタイルになります。

創価学会では「文字」に対して祈っているんですよ。

ボクは、初めてみたときに
この部分が非常に面白かったんです。

「は〜!偶像と無象のちょうど中間ですね!」と
学会の大恩人に感想を伝えたことを覚えております。

ちなみに「文字」とは「模様」でもあります。
つまり、面白いことに形は違えど、
「偶像崇拝」を避けているんです。

そしてですね、
様々な宗教・宗派・信仰・自己啓発・スピリチュアルを
自分なりに調べまくったボクが出した結論があるんです。

それは、
「信仰の根源は、自分と向き合うこと」
この一点だと思うんです。

信仰スタイルに違いはあれど、
共通している根本的な部分が
「自分と向き合う」だったんですね。

⑤「偶像」も「模様」も幸せに向かうための目印。

「自分と向き合う」が信仰の根源ならば、
なぜ信仰に「偶像」「模様」が絡んでくるのかが
ボクなりに納得できたんです。

そして、なぜ信仰するかというと
「幸せになるため」なんです。
どの宗教もそこを根底にしております。

そして、幸せになるための道のりは、
山登りに似ております。

まず、各々に合ったスタイルで
「山頂(幸せ)」に向かう道を選んで山を登っていくんです。
もちろん、途中で違う道に乗り換えても全然OKです。

ただ、どの道を登っていても避けては通れないのが
「自分と向き合うこと」なんです。

なぜならば、「幸せ」の形は人それぞれ違っており、
常に自分と向き合わないと、
「山頂(幸せ)」までの道が分からなくなるんです。

ここで役立つのが「偶像」「模様」なんです。

「偶像」があることで、めちゃんこ祈りやすいんですよ。
すぐに「自分と向き合う」ことができるんですね。

でも、ここで問題なのが、
人生には浮き沈みがつきものですよね。
そのときに「偶像」にすがってしまうことなんです。

「偶像崇拝」を山登りに例えるなら、

山の途中に「山小屋」があって、
「山小屋」いう分かりやすい「目印」があると
登りやすいですよね?
でも、「山小屋」まで登ってきたところで、
これまでの苦労とこれからの苦労を考えてしまって、
そこに居座ってしまうんですね。

ここが「始まりの人」が危惧していたことだと思います。
そこで出てくるのが「模様」なんです。

「模様」を山登りに例えるなら、

山の途中に「標識」があって、
山頂(幸せ)までのルートを指し示してくれるんです。
登り続ける限り、ずっとナビしてくれるんですね。
「あ〜、山頂にたどり着きたい!」という気持ちを
湧き上がらせてくれるんです。
それは、まさに「シンボル」なんです。

でも、ここで問題があるんです。
「標識」「目印」とするにはあまりにも小さすぎて、
遠くからだと見えないと思いません?

そうなんです。
「模様」はめちゃんこ祈りづらいんです(笑)
「偶像」と違ってですね、
なかなか「自分と向き合う」スイッチが入らないんですよ。

慣れていないとなかなか難しいんです。

だからこそ、
「みんなを救うためについた方便(嘘)」
なんです。

「自分と向き合う」ためには、
「偶像」が分かりやすくて楽なんです。

ただ、それだとどこかで「すがってしまう」んですね。
だからこそ「偶像崇拝」を禁止にしたんじゃないかと。

でも、みんなの幸せへの一歩を歩んでほしいから、
しょうがなく「偶像」を使ってきたんだと思います。

その流れとの対抗馬として、
なんとかひねり出したのが「模様」なんだと思います。

だからこそ、この言葉なんです。
「アラベスク模様とは信仰を遠ざけるものではなく、
信仰の本質に近づくものである」

⑥「偶像崇拝」の反対は「象徴信仰」。

最後にですね、冒頭の疑問であった
「「偶像崇拝」の反対ってなんだろう?」について
まとめていこうと思います。

ここまでまとめてきた
ボクなりに言うならばですね、
「象徴信仰」なんだと思います。

「偶像崇拝」とはよく言ったもので「崇拝」なんですよね。
良くも悪くも「絶対的な権威として無批判に尊ぶこと」なんです。
つまり、どこかのタイミングで
「自分と向き合うこと」を忘れてしまって、
「すがってしまう」んです。

なので、そこの反対に位置する言葉を組み合わせてみました。

「象徴信仰」としたのはですね、
「シンボル(象徴)」こそが自分の内側から
信仰心が湧き上がる「キッカケ」になると思ったからです。
でも、その力は微々たるものなんですけどね。

そして、「信仰」という言葉は、
「崇拝」とは似ているようで違うと
ボクは思うんです。

「信仰」とは、
「幸せになれるんだ」と自分で選んだ道を信じて歩むこと。

「崇拝」とは、
「幸せになれるよ」と誰かに言われた道を歩むこと。

だから、変な話ですが「信仰」は、
コロコロ変わっても良いんだとボクは思うんです。

あなたが幸せになれると信じた道があるなら、
その道を歩んだ方が良いと思います。

まぁ、創価学会員のボクがそんなこというと、
熱烈な学会員さんからは怒られそうですね(汗)

ここまで読んでくれた方々に向けてですね、
あえて言うなら「目印」があった方が
山登りはしやすいと思いますよ(笑)

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この記事を書くのは、
おそろしく頭を使ってしまいました(泣)

ここまで読んでいただき、
不快な思いをされた方や
読みづらくてイライラした方がおりましたら
本当に申し訳ないです><

それでも、きちんと構成をきって
一度は投稿してみたい!と思い、、、
なんとか、なんとか、まとめてみました!

最後まで読んでいただき、
本当に、本当に、ありがとうございました!!!


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