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読解『生のなかの螺旋』②ーー重要さと重さ

この章はなかなか耳に痛い言葉から始められる。

われわれはなんとかして重要になり、世間で一目おかれ、違いを見せたいと願っている。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p320)

私たちは「他人のことは関係はない」とうそぶきながらも、つねに世間(社会、会社、学校、家庭など)のなかで評価されたいと考えている。
それにしても、「重要」になるとはどういうことだろう。自分に価値や生きる意味があれば重要になれるのだろうか? ノージックは即座にその考えを否定する。つまり、重要さにおいて、価値や意味があることは必須条件ではない。 

重要さという考えを価値や意味という考えには還元できない。いくつかの活動は重要でなくても価値を持つことができるかもしれないのに対し、他の重要で影響力の強い活動には価値も意味もないことがある。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p320)

上記引用の「重要でなくても価値を持つことができる」ものの例として、ノージックはチェスを挙げる。
ノージックは、チェスには上位概念である「戦争」と結びつけることで、「それ独特の展開、組合せ、奇手」といった価値や意味があることを認めるが、ゲーム自体は重要ではないと言い切る。
なぜならチェスは、たとえば我々の見方を変えたり、実際の戦争に駆り立てはしない。チェスを楽しんでいるプレイヤーにとっても、その人の「人生が深められたりその知覚に変化が起きたりということはない」からだ。
おそらくチェスのようにひとつの完結した構造は、たとえ価値や意味を持っていたとしてもそれ自身で完結してしまい、別種の体系に結びついたりしない。よってチェスは重要ではない。

このように、重要さには価値も意味もなくてもかまわないわけだが、なぜかわれわれは以下のような試みをしてしまう。

われわれはときには差をつけたり効果を及ぼしたりしたいと思う。だからわれわれは影響力と重要であることをどこかに落ち着かせようと思う。たとえこうすることが価値も意味もなくまたわれわれの影響力もそのどちらでもないとしても、まったく重要さがないよりは幾分でもあった方がましである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p322)

われわれは世界に対して何の影響力も効果も持ち得ないことに耐えられない。だから、少しでも自分が重要であろうとする。
すると、どうなるか。他者との差異(冒頭の「違い」)は、「個別の評価」によってもたらされる。これはたとえ価値と意味があったときでさえそうである。なぜなら、「もっともすぐれた種類の重要さもまた価値と意味を持つ」が、差異に注目した場合には「個別の評価」以外に頼るものがなく、その場合「重要さを希求し追求」するしかない。しかしーー。

とはいうもののーーいっそう面倒なことにーーわれわれは重要さという考えを価値と意味という概念から完全に切りはなすことはできない。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p323)

たしかに重要さには価値と意味がなくてもよい。しかし、私たちは重要さという考えに、どうしても価値や意味の概念を持ち込んでしまう。
そうすると価値や意味のない重要な事件も、重要であるかぎりは価値や意味に対していくぶんの効果を与えなければならなくなる。

すると、この場合は、その重要さは、価値と意味へのその大きな否定的な影響力の中にあることになろう。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p323)

つまりその重要な価値や意味のない事件や行動は、価値と意味を否定する効果を持っている、と考えるのである。

とすると、ここで注目すべきは、価値や意味に対する「効果」ということになってくる。
さらに何かが影響力を持つという場合、「効果」はその数ではなく、その種類こそが大切だという。そして、この「効果」を特定するためには、その対象となる価値や意味といった評価的次元をも考える必要がある。

重要な事件とは、わたしの考えでは、大きな問題となる諸効果、大きな相違を価値や意味(の総量や特性)に、あるいは何か他の評価的次元に与える効果を伴った事件である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p323)

ここまで来てついに、価値、意味が復権し、これらに対し大きな効果をもつ事件が重要であると定義される。
では、われわれは価値や意味などに対してどんな影響を与えることを望むのか。

われわれが切望してやまない種類の影響力は、ひとつの大きな積極的な差異を、何かの価値や意味に(あるいは何か他の適当な評価的次元に)つくる。われわれはこの差異が内部の何かつまらなくないものから生じることを望む。(中略)われわれは大きな結果がわれわれが尊重する特徴から由来すること、またさらに具合よく、それらの統合された組合せから生じることを望む。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p326)

ここに、われわれの「重要に見られたい」という欲望の根源が見えてくる。すなわち、われわれ自身の「尊重する特徴」が、価値や意味に積極的な差異をつくることへの切望だ。

われわれの行為が原因となったとき、われわれはその行為が意図的で自己-表現的であり、価値ある特徴から派生しそれを示していることを望む。おそらく、この理由は、価値と意味の中で続々に起きるすべての差異は、それ以前の自らの価値と意味をもつ特性や活動から選択されて、それらのせいにされるからである。少なくとも、そのような特性が気まぐれな役割を演じるときわれわれの重要さはいっそう増し加わる。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p326)

上記引用からは、「価値と意味の中」に積極的な差異を生むには、「自らの価値と意味」に由来する自己表現的な行為が必要であることがわかる。
もっとせんじ詰めれば、重要さは行為から発生すると端的に言うことができる(行為をしないことから重要さはめったに発生しない。「ただ往来の歩行者をひき殺さないというだけで、あなたがいつも歩行者たちに重要な結果を与えているわけではない」)。

ノージックはさらに、世俗的と思われている富と権力が果たして重要なのかの考察に入るが、その前にまず重要さの二つの側面を整理している。

第一の面は外からの影響力つまり効果をもつことを含み、外からの効果のもととなる源泉であり、他の人や事物があなたの行動によって影響される結果となるように効果が流れ出てくる場所である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p327)

やや持って回った言い方だが、あなたに「効果が流出する原因的源泉」が備わっていれば、あなたの行動は他人や事物に影響(効果)を与えることができる、ということだろう。
これに対し、重要さの第二の側面はシンプルである。

第二の重要さの面は一目おかれなければならないこと、存在感があることを含む。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p327)

この第一と第二の側面は互いに連動している。なぜなら、第一の側面が効果の源泉(原因)であるので、そこへの反応(結果)が他者からの注目であるからだ。

これを前提に、まず権力について見ていこう。

他の人びとの注目の焦点であることは、しばしば、権力者たちの特権である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p328)

注目は重要さの第二の側面であった。とすると、権力は少なくとも重要さの一側面を満たしていると言えよう。

次に、権力者に特有の「権力、名声、富貴」について、もう少しくわしく見ていこう。

権力、名声、富貴への欲望は、大部分、重要さへの欲望である。もちろん、権力、名声、富貴が欲望されるのは、一部は、それらに続いてくるものーー財産、愉快な経験、おもしろい社交上の出会いーーの手段としてである。けれども、これらのつつましいものごとのかなたには、権力、名声、富貴がまた、まぎれもなく重要さのあの二つの型、効果をもつことおよび一目おかれること、を巻き込んでもいる。さらに、これらはまた重要であることを象徴する。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p328)

このように権力、名声、富貴には重要さの二側面が見られるし、それどころか重要さの象徴ともなる。加えて、権力のみを注視すると以下のようなことも言えてしまう。

重要さへの結合は権力の場合にはもっとも明白になる。権力者は自然の恵み、自然自身、他の人間に影響を与えることができるからである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p328)

こうなってくると権力は、人々の行動やふるまいに影響を与えるという一般的なイメージの枠内にとどまらず、「人びとの核心である自己」に影響を与える存在として浮かび上がってくる。

なかなか底恐ろしい感じになってきたが、気を取り直して今度は富に目を向けてみよう。

富もまた、それで買えるものばかりではなく、それがもたらす重要さのために望まれる。西欧社会では、たいていの場合、富が人を重要にする。そのため富裕な人は(たいてい)大切に待遇され大きな効果を及ぼすことができる。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p329)

これもまた実感として理解しやすいのではないだろうか。お金持ちはたいてい、ある種の実権を持ち、他者や社会に大きな影響を与えている。

富は重要であることの象徴であり、富こそ重要さの貨幣と言ってもかまわないだろう。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p329)

権力が重要さの象徴であったのと同様に、富もまた重要さの象徴となる。たしかに「周りがこんなにもてはやしているからには、重要な人に違いない」という判断は成り立つだろう。
とすると、富を持つ人は、やはり重要なのだろうか?

わたしが言いたいのは、誰でも、その当人にせよ他の人にせよ、富によって人間の重要さを見積るべきではないということである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p330)

ここにきて、ようやくノージックの反論(?)が始まる。なぜなら、「金銭と富は、それだけでは、ニュアンスに富んだ表現の媒体ではない。複雑な何かを鏡のようにうつす渦巻きや肌理(きめ)を欠いている」からだ。どういうことか?

何故われわれは金銭が活動の第一の動機であるとき品位がないと考えるのだろうか。(中略)ある活動にはいる動機が第一に金銭によるということは、(中略)その価値と重要さが金銭よりも高いと考えられている活動をおとしめることである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p332)

もし、哲学者、医者、ヴァイオリン職人、作家が金をかせぐことを主目的に仕事をしていたら、その活動はいやしいものにおとしめられた気がするだろう。
愛というものに視点を広げてもいいかもしれない。「人物よりも金銭をよけいに愛する人はその人物を愛していないことになる」。

これをふまえて、もう一度、権力についての議論に戻ろう。

もしも重要さがたしかに真実の一次元であるならば、単に権力を所有することも誰かにより大きい真実を与えていると言わねばならないのだろうか。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p333)

ノージックが否定的なように、権力が真実を与えるというのは直観的に間違っている気がする。たとえば権力者が自身の意志を他人に押しつけ、支配したりほかの選択の余地を奪うといった場合だ。 

もしも権力それ自体の所有と行使によって効果をもつことが誰かにより大きい真実をもたらすならば、それは他のやり方よりももっと広い範囲にわたって、その人の真実を縮小することになる。これこそが権力がもたらしがちな腐敗の一片である

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p333-334)

やっと、権力がもたらす効果が害悪を招くことに行き着いた。
とすると、これまでの重要さの議論は大きくずれていたのだろうか。ノージックはここで、重要さの要件を再定義する。

以上のような重要さのもついくつかの方式は誰かをいっそう真実にはしない、ということをようやく示すことができたのは、これまで重要さが中立的にーーどんな種類にせよ、影響力をもつものとしてーー定義されてきたためである。まず初めに、ただある種類の影響力、およびただあるタイプの理性だけが考慮され、重要である「重要さ」をつくりあげると限定した方が簡単ではないだろうか。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p334)

ここからが本題である。重要である「重要さ」をつくりあげるうえで考慮すべき「ある種類の影響力、およびただあるタイプの理性」とは何か。著者はここで「重さ」を挙げる。

価値、意味、重要さと対等に、真実の第四の評価的局面ないし〔評価的〕次元、つまり重さのそれがある。何かの重さとはそれの内的実質性と強さである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p334)

とすると、たとえば、その人が重みのある人なのか、軽いやつなのかを判断するうえでは、重要さが基づいている特質、すなわち「その人がどんなに実があるか、その考えは思慮深いか、その判断は頼り甲斐があるか、またどんなにかれが不幸やもっと深い試練にも負けないでいるか」が問われる。結果、重みのある人は、「流行やきびしい詮索の風によって吹き飛ばされはしない」。

われわれは重みをある種の外的変化への抵抗として特定してもよいかもしれない。(中略)重みはある平衡という考え方もできる。安定したバランスをもつものならば外からの力に抵抗するか、以前の状態かそれに近い状態に戻る。また同じように、ある人物、ある意見、ある原理、またはある情動は、もしもそれが外側の圧力ないし諸力に直面したとき現状を維持するか、もと通りに立ち直れるならば、重みをもつ。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p335)

本稿前半では「重要さ」の考察にだいぶ手間取ったが、「重み」についてはだいぶ直観的に理解しやすいのではないだろうか。たとえば「重みのある人物」を考えた場合、かたくなであるというよりも、思慮深く、頼りがいがあり、試練にも負けず、たとえ打ちのめされても元どおりに立ち直れる人物を想定できるだろう。これは「重みのある意見」にも敷衍できる。

重みのある意見とは順序正しく考察されていて、多くの事実、より大きな問題、持ち出されるかもしれない反対意見の可能性を考慮に入れている意見である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p335)

また、先ほど「情動」も重みをもつものの例として出てきた。

情動も重みをもつ。それが当人の他の努力、計画、目標、欲望と結びつけられ、それらと統合されるとき、それは一過性の気まぐれではない。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p335-336)

ここまで、「ある人物、ある意見、ある原理、またはある情動」が重みをもつ場合を見てきた。しかし残念ながら、重みが「こうである」と示す内的な描写は見つからない。一方、外的には、先に述べたとおり、外的変化に抵抗し外からの力に抵抗するか、以前の状態かそれに近い状態に戻るという特徴は持っている。

けれども、重みとは、それが外的であるための基準をわれわれは用意したにもかかわらず、内的な現象である。それは内的な属性であり、特定の事例においてどんなであろうとも、平衡を保ち続ける基礎となる属性である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p336)

これに対し、「重要さ」は「外的結合ないし関係を巻きこんでいる」。

重要さは外的または関係的強さまたは権力であるのに対し、重みは内的、内属的強さである。価値は何ものかの内属的統合であるのに対し、意味は外的事物とそれの関係および統合である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p336)

価値や意味がまた出てきて、なんとなくややこしくなったが、「重要さ」は「意味」に近しく外的なもの、「重み」は「価値」に近しく内的なもの、というくらいにとらえておけばよい。
これら、価値、意味、重要さ、重みを、ノージックは「真実のもつこれら四つの評価的次元」と言っているが、ややこしく取る必要はなく、「四つあるのだな」くらいの認識でよい。むしろ、四つどころか、深み、広さ、振幅、高み、独創性、活気、生気、円満具足、創造性、個性、表現力、美・真・善など、評価的次元のリストはどんどん長くしていくことができる。

評価的次元の数をふやすことは、われわれの強烈な積極的情動の見方に影響する。というのは情動が積極的であるのは厳密にそれらの情動が積極的評価を具体化するときだからである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p339)

ここで先に読解した「情動」が議論に上ってくる。

われわれはまた何かを意味、重み、重要さ、深み、強烈さ、活気、その他をもつものとして積極的に評価することができる。情動は、これら多様な次元に沿って事物を評価することに基づいているばかりでなく、われわれがこれらの強烈で積極的な情動をもっていること自体がわれわれの生活の価値、意味、強烈さ、深みその他に貢献している。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p339)

これらの情動はただ単に評価的次元に呼応するばかりでなく、これらの次元に沿ってわれわれをつくりあげることを助けているのである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』p339)

ここに、「情動」の項で掲げられた「スポック問題」に対して真の答えが出る。情動なしには、われわれをつくりあげることは不可能なのだ。そして情動が反応すべき評価的諸次元のリストは、どんどん長くなってよい。なぜならそれらは「何かをいっそう真実にする諸次元」だからだ。

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