読解『生のなかの螺旋』②ーー重要さと重さ
この章はなかなか耳に痛い言葉から始められる。
私たちは「他人のことは関係はない」とうそぶきながらも、つねに世間(社会、会社、学校、家庭など)のなかで評価されたいと考えている。
それにしても、「重要」になるとはどういうことだろう。自分に価値や生きる意味があれば重要になれるのだろうか? ノージックは即座にその考えを否定する。つまり、重要さにおいて、価値や意味があることは必須条件ではない。
上記引用の「重要でなくても価値を持つことができる」ものの例として、ノージックはチェスを挙げる。
ノージックは、チェスには上位概念である「戦争」と結びつけることで、「それ独特の展開、組合せ、奇手」といった価値や意味があることを認めるが、ゲーム自体は重要ではないと言い切る。
なぜならチェスは、たとえば我々の見方を変えたり、実際の戦争に駆り立てはしない。チェスを楽しんでいるプレイヤーにとっても、その人の「人生が深められたりその知覚に変化が起きたりということはない」からだ。
おそらくチェスのようにひとつの完結した構造は、たとえ価値や意味を持っていたとしてもそれ自身で完結してしまい、別種の体系に結びついたりしない。よってチェスは重要ではない。
このように、重要さには価値も意味もなくてもかまわないわけだが、なぜかわれわれは以下のような試みをしてしまう。
われわれは世界に対して何の影響力も効果も持ち得ないことに耐えられない。だから、少しでも自分が重要であろうとする。
すると、どうなるか。他者との差異(冒頭の「違い」)は、「個別の評価」によってもたらされる。これはたとえ価値と意味があったときでさえそうである。なぜなら、「もっともすぐれた種類の重要さもまた価値と意味を持つ」が、差異に注目した場合には「個別の評価」以外に頼るものがなく、その場合「重要さを希求し追求」するしかない。しかしーー。
たしかに重要さには価値と意味がなくてもよい。しかし、私たちは重要さという考えに、どうしても価値や意味の概念を持ち込んでしまう。
そうすると価値や意味のない重要な事件も、重要であるかぎりは価値や意味に対していくぶんの効果を与えなければならなくなる。
つまりその重要な価値や意味のない事件や行動は、価値と意味を否定する効果を持っている、と考えるのである。
とすると、ここで注目すべきは、価値や意味に対する「効果」ということになってくる。
さらに何かが影響力を持つという場合、「効果」はその数ではなく、その種類こそが大切だという。そして、この「効果」を特定するためには、その対象となる価値や意味といった評価的次元をも考える必要がある。
ここまで来てついに、価値、意味が復権し、これらに対し大きな効果をもつ事件が重要であると定義される。
では、われわれは価値や意味などに対してどんな影響を与えることを望むのか。
ここに、われわれの「重要に見られたい」という欲望の根源が見えてくる。すなわち、われわれ自身の「尊重する特徴」が、価値や意味に積極的な差異をつくることへの切望だ。
上記引用からは、「価値と意味の中」に積極的な差異を生むには、「自らの価値と意味」に由来する自己表現的な行為が必要であることがわかる。
もっとせんじ詰めれば、重要さは行為から発生すると端的に言うことができる(行為をしないことから重要さはめったに発生しない。「ただ往来の歩行者をひき殺さないというだけで、あなたがいつも歩行者たちに重要な結果を与えているわけではない」)。
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ノージックはさらに、世俗的と思われている富と権力が果たして重要なのかの考察に入るが、その前にまず重要さの二つの側面を整理している。
やや持って回った言い方だが、あなたに「効果が流出する原因的源泉」が備わっていれば、あなたの行動は他人や事物に影響(効果)を与えることができる、ということだろう。
これに対し、重要さの第二の側面はシンプルである。
この第一と第二の側面は互いに連動している。なぜなら、第一の側面が効果の源泉(原因)であるので、そこへの反応(結果)が他者からの注目であるからだ。
これを前提に、まず権力について見ていこう。
注目は重要さの第二の側面であった。とすると、権力は少なくとも重要さの一側面を満たしていると言えよう。
次に、権力者に特有の「権力、名声、富貴」について、もう少しくわしく見ていこう。
このように権力、名声、富貴には重要さの二側面が見られるし、それどころか重要さの象徴ともなる。加えて、権力のみを注視すると以下のようなことも言えてしまう。
こうなってくると権力は、人々の行動やふるまいに影響を与えるという一般的なイメージの枠内にとどまらず、「人びとの核心である自己」に影響を与える存在として浮かび上がってくる。
なかなか底恐ろしい感じになってきたが、気を取り直して今度は富に目を向けてみよう。
これもまた実感として理解しやすいのではないだろうか。お金持ちはたいてい、ある種の実権を持ち、他者や社会に大きな影響を与えている。
権力が重要さの象徴であったのと同様に、富もまた重要さの象徴となる。たしかに「周りがこんなにもてはやしているからには、重要な人に違いない」という判断は成り立つだろう。
とすると、富を持つ人は、やはり重要なのだろうか?
ここにきて、ようやくノージックの反論(?)が始まる。なぜなら、「金銭と富は、それだけでは、ニュアンスに富んだ表現の媒体ではない。複雑な何かを鏡のようにうつす渦巻きや肌理(きめ)を欠いている」からだ。どういうことか?
もし、哲学者、医者、ヴァイオリン職人、作家が金をかせぐことを主目的に仕事をしていたら、その活動はいやしいものにおとしめられた気がするだろう。
愛というものに視点を広げてもいいかもしれない。「人物よりも金銭をよけいに愛する人はその人物を愛していないことになる」。
これをふまえて、もう一度、権力についての議論に戻ろう。
ノージックが否定的なように、権力が真実を与えるというのは直観的に間違っている気がする。たとえば権力者が自身の意志を他人に押しつけ、支配したりほかの選択の余地を奪うといった場合だ。
やっと、権力がもたらす効果が害悪を招くことに行き着いた。
とすると、これまでの重要さの議論は大きくずれていたのだろうか。ノージックはここで、重要さの要件を再定義する。
ここからが本題である。重要である「重要さ」をつくりあげるうえで考慮すべき「ある種類の影響力、およびただあるタイプの理性」とは何か。著者はここで「重さ」を挙げる。
とすると、たとえば、その人が重みのある人なのか、軽いやつなのかを判断するうえでは、重要さが基づいている特質、すなわち「その人がどんなに実があるか、その考えは思慮深いか、その判断は頼り甲斐があるか、またどんなにかれが不幸やもっと深い試練にも負けないでいるか」が問われる。結果、重みのある人は、「流行やきびしい詮索の風によって吹き飛ばされはしない」。
本稿前半では「重要さ」の考察にだいぶ手間取ったが、「重み」についてはだいぶ直観的に理解しやすいのではないだろうか。たとえば「重みのある人物」を考えた場合、かたくなであるというよりも、思慮深く、頼りがいがあり、試練にも負けず、たとえ打ちのめされても元どおりに立ち直れる人物を想定できるだろう。これは「重みのある意見」にも敷衍できる。
また、先ほど「情動」も重みをもつものの例として出てきた。
ここまで、「ある人物、ある意見、ある原理、またはある情動」が重みをもつ場合を見てきた。しかし残念ながら、重みが「こうである」と示す内的な描写は見つからない。一方、外的には、先に述べたとおり、外的変化に抵抗し外からの力に抵抗するか、以前の状態かそれに近い状態に戻るという特徴は持っている。
これに対し、「重要さ」は「外的結合ないし関係を巻きこんでいる」。
価値や意味がまた出てきて、なんとなくややこしくなったが、「重要さ」は「意味」に近しく外的なもの、「重み」は「価値」に近しく内的なもの、というくらいにとらえておけばよい。
これら、価値、意味、重要さ、重みを、ノージックは「真実のもつこれら四つの評価的次元」と言っているが、ややこしく取る必要はなく、「四つあるのだな」くらいの認識でよい。むしろ、四つどころか、深み、広さ、振幅、高み、独創性、活気、生気、円満具足、創造性、個性、表現力、美・真・善など、評価的次元のリストはどんどん長くしていくことができる。
ここで先に読解した「情動」が議論に上ってくる。
ここに、「情動」の項で掲げられた「スポック問題」に対して真の答えが出る。情動なしには、われわれをつくりあげることは不可能なのだ。そして情動が反応すべき評価的諸次元のリストは、どんどん長くなってよい。なぜならそれらは「何かをいっそう真実にする諸次元」だからだ。