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映画『レボリューショナリー・ロード』

(2023年8月20日猛暑の日曜日の午後に鑑賞)

わたしはこの作品をとても気に入りました。
初めて観たときから大好きな映画です。

この作品に対しては
「セリフが説明的過ぎる」とか
「役者の演技に頼り過ぎている」などの批判もあるようです。

セリフに関しては
「真実」や「絶望」などについて語る場面が
印象的でした。

しかしそれらは
説明的であるというよりも
抽象的であるとか象徴的と言えるのではないかと
わたしは感じました。

いわゆる「普通の人」が
日常会話の中で
「真実」や「絶望」について
語ることは少ないのかもしれません。
その意味で
「この映画の登場人物は普通の人ではない」と
言えるのかもしれません。

しかし
この映画は
「そもそも普通の人とは一体なんなのか」ということを
問うているような気がします。

この作品の登場人物
または役者たちは
「特別な夫婦」
または「精神病患者」を演じています。

役者は登場人物を演じているけれど
その登場人物もまた
なにかを演じているようです。

このように考えると
作品を一層奥の深いものに感じることが
できるような気がします。
そしてそれこそが
この映画が目指すところなのかもしれません。

幸運なことにわたしは
役者がそれぞれの役に徹しているという事実を
感じることができました。

たとえ登場人物が感情を爆発させているような場面でも
そのセリフが浮いているようには
観えませんでした。

それどころか
そのような場面ではいつも
わたしは
激しさと虚しさを
同時に感じていました。

「ただ単に人が怒り狂う場面」と
捉えることができませんでした。

翳りゆく陽の光や
狭い部屋に佇む静けさが
絶望を知らせてくれているようでした。

そういうわけで
『レボリューショナリー・ロード』に対する
「役者の演技に頼り過ぎている」という批判が
具体的にどの部分を指しているのかについては
わたしにはまだ理解ができていません。
(わたしは都合よくこの映画の術中にハマっているのかもしれません)

ここで
「CGに頼り過ぎている」と批判を受けている映像作品について
考えてみます。
それは
一目でCGと分かるような登場人物を
無理やり人間として観なければならないような作品なのかもしれません。

もしかすると
『レボリューショナリー・ロード』に対する
「役者の演技に頼り過ぎている」という批判は
「役者が演技をしているようにしか観えない」という感想なのかもしれません。

しかし
演技やセットが自然に見えるか
それとも造りものに観えるかという判断は
最終的には作品を観る人の趣味によるのではないかと
わたしは考えています。

少なくとも
この作品における
「役者の演技が浮いているのではないか」という疑問は
冒頭の演劇のシーンの中ですでに示唆されていると
わたしは感じました。

はたして
「エイプリルだけが本物の役者である」と言えるのか。
もしかすると
周囲の人間こそが
人間を演じているという意味において
真の役者であると言えるのかもしれない。
このような視点は
序盤のセリフによって
すでに語られていることのような気がします。
(このようなセリフを指して「説明的」と解釈することはできそうです)

それから
本作に対しては
『タイタニック』出演の役者が演じるパラレル・ストーリーという見方もあるようです。
それは
作中の「特別な夫婦」という言葉が
『タイタニック』のカップルを連想させる効果があるからなのかもしれません。

たしかにこの配役は
いわゆる「メタい」ものであり
皮肉のようなものなのかもしれません。

しかしこの美男美女の夫婦は
それぞれに婚外恋愛を招くほどの魅力をもっています。
そのことは物語の中で明確に描かれていると
わたしは感じました。
だからこそ彼らは
「特別な夫婦」なのです。

ただし
そのように感じることのできなかった人にとって
「特別な夫婦」という言葉は
よく分からないままに心に引っかかるか
またはまったく記憶に残らないかの
どちらかにしかならないような気がします。

もしも
この「特別な夫婦」の言動を
精神を病んでいる人が観たら
どのような感想を抱くのだろうかと
わたしは考えていました。

「特別な夫婦」に
特別なところなどなくて
むしろ普通に見えるのかもしれません。

そのことは
作中のジョンという登場人物の言動から
想像を膨らますことができました。

もしかしたら
配役された彼らも
物語の登場人物も
「おままごと」を演じているだけなのかもしれません。

いずれにせよ
再生ボタンを押すだけで
その「普遍的な物語」を
繰り返し鑑賞することができてしまいます。
それは
登場している彼らが
特別だからなのでしょうか。

そして
真実の姿をスクリーン上に映し出すことが
または
悲劇的で普遍的な物語を繰り返すことが
誰かの幸せにでもなるというのでしょうか。

「レボリューショナリー・ロード」は
夫婦がその欺瞞に満ちた生活を変える
または
終わらせるために現れてしまう道なのかもしれません。

結婚前のフランクとエイプリルは
お互いにその道の存在に気がついていました。
しかし
訪れたチャンスに気がつくことができたのは
エイプリルだけだったようです。

これはエイプリルとその子どもを
救えなかった人たちの話であり
道を選ぶことの難しさであり
子どもを産むことの難しさであり
「普通とはなにか」という問いであり
多くのことについて考えさせられる作品であると
わたしは感じました。

チャンスは一度しか訪れない。
他人がどう感じようと
それを実行すべきときがチャンスなのかもしれません。

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