親ガチャ論の気持ち悪さ

近頃ネットサーフィンをしていると数週間に一回は見かける言葉、「親ガチャ」。この言葉をもとに繰り広げられる争いには、なんとも言えない不快感がある。それを言語化しようと思う。

「親ガチャ論」の対立軸は極めて明確だ。それは親への感謝である。争いの元凶となる人物が、自らの置かれた辛い境遇の責任を親に求めて貶し、それを親に感謝している他者が諌めたり、批判したりする。言葉にしただけでこの争いの不毛さが現れている。

私は、はっきり言って後者側の人間が恐ろしい。先に断っておくと、私自身は当たり前の事が当たり前になされる事はありがたい事で、自らの両親には最大限感謝すべきではあるとは思う。しかし、それを他者に強要することが誤りであるのは明白だ。どうして育った環境も、境遇も違う人間に、自らの心情を当てはめて心無い言葉を投げかける事が出来るのだろう?もし発言者が親しい友人などであるならば、諌めるのも正しいかもしれない。しかし、実際に画面の向こうにいるのは、明らかに助けが必要な他人なのである。正論で殴りつけるためのサンドバッグでは断じてない。

それでは何故、このような思想の強要は発生するのだろうか。実際にこれを行なっている人の主張を見てみると、大別して二つの論調が確認できた。それは、「大人になってみれば、あなたも親の苦労が分かるよ」と諭すものと、「私自身も同じような親の元に生まれたが、それでも親に感謝する事は大切だ」と説くものである。なるほど、双方共に主張の筋は通っていてもっともらしい。とりわけ、同じ「親ガチャ」のハズレ側に位置するであろう人からも非難の声が上がることは興味深い事だ。では何故、このような考えの差異が生じるのであろうか?

上述した二つの論調のうち前者は、現役の親世代に当たる方々によって主張されている事が多い。当たり前であるが、「親ガチャ」のハズレを嘆く少年少女とは、年齢に大きな開きがある。にも関わらず、その年齢差がある相手に対して、心無い言葉を投げかけられるその精神性に苦笑せざるを得ない。真っ当な半生を送ってきた大人ならば、時代が異なるが故の環境の差異が理解出来ない筈がない為である。年長者が、若者に対して説教をするこの構図を現代企業に当てはめると、パワハラと呼ばれる事象となる。

後者について、発言者と似た境遇にあるものですら、その辛さに寄り添えない構図は悲劇と言わざるを得ない。私は、その原因を、当事者がどれだけ同年代の他者と比べ、追い詰められてしまっているか、にあると考える。残念な事に、環境に恵まれなかった子どもたちが現代社会において、起業家や政治家、企業役員などの分かりやすい「成功者」となれる可能性は非常に低い。そこに至るまでの過程に必要な、知識や経験は全て金銭によって売買される為だ。増え続ける二世議員や二世社長などを見れば、この事実は一目瞭然である。よって、こうした子供たちの大半は、資本家に奉仕する労働者として一生を終える。一昔前ならば、多少の不満はあれど、大半の人間がこれを受け入れ、自らの幸せを掴めのかもしれない。スラム街の子供達などもこれに当てはまる。私が出会ってきた彼らは、自らの生まれに多少の不満はあれど、周囲に同じ境遇の他者が多数いるが為にある程度幸福を享受できていた。しかし現代社会では、この機会の不平等は、インターネットなどにおいて、年頃の子供達に容易に観測できてしまう。そこで自らの育ちを受け入れて、与えられた環境で咲こうと切り替えられる人間が、後者側の論調に立って、恵まれた者達への執着を捨てきれてない発言者達を批判しているのであろう。

また、上述の論点と被る面もあるが、そんなに親が憎いなら自ら働いたり、特待生になったりした後に学問に励めば良いだけという意見も散見される。これは、この問題の本質を理解していない者の意見である、と言わざるを得ない。発言者はその進路設計が現在の日本で理解を得難い事を見落としている。日本社会は新卒至上主義である。そんな中、就職した後に大学へ入学し、学び直したものを受け入れる為の門戸は非常に狭いと言わざるを得ない。また、年功序列が依然幅を利かせている日本で、果たして大学へ通えるだけの資金を貯めるのに何年かかるのだろうか。家族に頼らない、という前提のもとで考えると生活費を全て自分で賄い、かつ毎日八時間働きながら、若さも勉学に励む環境もある現役生たちに張り合える実力を付けねばならない。それが出来ると断言出来るものがいたら心から尊敬の念を抱くが、真偽の程は甚だ疑問である。

また、特特生に熾烈な競争を勝ち抜いてなれたところでその後の苦難を理解しているだろうか。特待を取る事を前提としている学生は、生活費のため当然アルバイトをしながら勉学に打ち込まねばならないだろう。それを四年間必死に続けた所で、果たして自らは勉学に励むことが出来たと言い切れるのだろうか。また、仮に全てが順風満帆に行き、希望の就職を得られたとしよう。当人は幸せになれた筈である。では、なぜ幸せを掴めたはずの人がさらにスキルを磨いて高みを目指すのではなく、匿名SNSで他社を批判して承認欲求を満たしているのであろう?成功者としては随分醜悪な余暇であると言わざるを得ない。

その答えは極めて簡単で、悲しい事にかような辛い経験をして育った者は自らの生存バイアスにより他者を批判的に見るしか出来なくなってしまったからである。確かに、当人は死に物狂いの努力の結果成功したのかもしれない。しかし、それを自らの努力のみの成果とする事こそ傲慢なのではないだろうか。その成功の影には、理解をしてくれる大学の友人や教授、バイト先の同僚等がいた筈である。仮にそのような人が一切存在しなかったと言い切る人がいたら、悲しい事にその人にとってそれは、自らの努力を理由に他者を見下したり糾弾する事であったのだろう。そうでなければ、なぜそのような偉業を達成できるだけの能力と精神力がある個人が、より上を目指さないのか説明がつかない。彼らは何かしらの理由で壁に阻まれ、自尊心を他者批判で満たす事しか無くなってしまったのである。

この記事を読んだ人間がどのような感想を抱くかは個々人の自由だ。しかし、私はせめて、画面の向こうにいる他人に最小限の配慮ができる人間が増える事を願うばかりである。


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