孤高のステラ
「人生を一言で表すと『孤独』です。」
そう答えたのは紛れもない「私」であった。
私の名はステラ。
現在、大学三年生。春休みに入り、絶賛就職活動中である。
進学も視野に入れつつも、働いてすぐに即戦力となれるようにスキル獲得に向けて活動している。
先日、面接をしてきた。
エントリーシートの好きなことの欄に哲学と書いていたこともあるのか、半分くらいは哲学のことを聞かれ、「ソクラテスのように問答法をしているのではないか?」と思うほどに哲学の話を質問された。
想像していた面接との違いに驚きと同時に、質問を通し自分を知ることに面白みを感じていた。
今回、はじめて面接を受けた。
面接の時間が来るまで緊張とワクワクと恐怖感とで混沌としていた。あの時間は簡単に慣れそうもない。
だが、そんな待ち時間とは打って変わり
初めての面接は思いのほか落ち着いていた。
ちなみに
面接ではこんな質問があった。
参考程度にご紹介しよう。
この質問は、ある意味私の言葉から生み出された相手の関心であるだろう。でないとこの質問はなかなか出ない。
いわば私が誘導したような、質問である。
しかし、
この22年近くの人生を一言とは考えもしなかった。
このことを話せばこういう質問も来るだろうというプロセスを頭に入れていなかったのだ。
とはいえ、なにか答えねばならない。
「少しお時間ください」
そういって30秒ほど人生を振り返ってみることにした。
しかし、30秒というものは人生を振り返るには早く刹那的で走馬灯のような時間である。
そもそもこの人生を一言でまとめるのは難易度が高い。
しかも1分ともない短期間で。
結局答えはまとまらず、「無意識に話している自分」に身を任せることにした。
すると、出てきた言葉が「孤独」であった。
自分でも驚いたのを覚えている。
続けて、私の口元はスルスルと蛇口から流れる水のように言葉を発する。
「私はずっと孤独を感じていました。『友人』と呼べる者もいます『家族』もいます。どれも大切な人です。
しかし、どうしても独りという感覚が拭えませんでした。
私は『精神の孤独』を感じています」と。
面接が終わり、即帰宅。
帰宅後。改めてこの「孤独」という発言の真意を捉えてみようと考えることとなる。
「私」とやらはやりたいことも多く、知りたいことも多い。
それ故の身につけたいスキルも多いようだ。
多忙な時期に様々な選択肢を取ろうとすることは、一歩間違えれば全てが崩れるジェンガのようなものだ。
さらにいわばジェンガを複数抜き取ろうという状態。ハードモードである。
①やりたいこと⇛②知りたいこと⇛③スキル獲得⇛①繰り返し
この止まらないサイクルの元凶である「好奇心」という病に侵され、さまざまな情報が入り混む。
私の頭はパンク寸前である。
特に、インターンシップや企業分析は興味深い。
さまざまな企業が業界、会社、部署の順で段階的に分けられ、それぞれ分類に色がある。
その色をみることは、学生が通る社会構造の一端であり、構造が色を見る期間を作る。
そのシステムに参加することで、何者でもない自分の「若さ」という経験の足りなさからくる無知への恥辱から、知ることで社会で生きる高揚へと導くのである。
とは言うものの、そんな無知の恥辱に悩まされているのはこの私である。
故に、これは私の妄想の一つにしか過ぎず、一個人の感想に過ぎない。
あるひとりの狂人が語るなかの一つと思ってもらっても構わない。
一人の人間を物語として楽しむつもりで読んでおくように。
また、これを語る私もその社会システム参加者の一人である。
いや、介入したと言うべきかもしれない。
わたしはこの社会システムから逃れることよりも受け入れる安堵が勝り、みずからそれを受け入れたのだ。
この安堵とは生きる安堵や未来への安堵ではない。
「精神の孤独」な人間がせめてもと「肉体の孤独」が満たされるため。
つまり、孤独な人間がどうにか誰かとつながっていることができるという安堵である。
私は、これまで人間の「善悪」や「幸不幸」について考えていた。
それは、人間をやるに当たり、この2つの概念が人間の幸せに左右されるものと考えていたからである。
しかし、あるきっかけを堺に私の価値を転倒させる出来事が訪れる。
それは新型コロナウイルスである。
この世界的に流行ったウイルスとやらで、2ヶ月ほど一人きりで過ごすという経験をした。
詳しくは前回書いた文に記している。
当時、部活動の他に
人間関係、自分の存在、学問などのあらゆる問に悩まされていた。
このまま部活を続けていても良いのだろうか。
人と関わりたくないのに人に対する好奇心が押さえられない矛盾。
これが理解されない苦しみ。
今学んでいることに関心がない。
といった問が私を苦しめた。
当時は、WiFiがなく、ケータイで情報を探すにも、ギガの制限により、手段がひどく限られていた。
実際、気質の可能性すら気付いていなかったのだから、より視野は狭い。
さらに、
「誰かに相談しようにも理解されないもの」
と勝手に諦めのようなものを感じていた。
それは、開示させようとしてきた人間にすこしでも話してみようものなら、
「何を言っているんだ」と嘲笑のような笑みをこちらに向けてくる経験からである。
苦しむ私にさしだした奴らの手からは温かさとは程遠い冷たさがあった。
奴らの手には棘がある。
掴んでしまっては傷を持ち続けて生きることになるのだと感じた私は、取り繕い、より人間をすることに徹した。
奴らは表面だけ焼けた生焼け肉のようなものである。
それは料理人が経験で食材を見極めるように、見せかけの優しさというのは経験を積まなければわからない。
生憎だが、生焼け肉とは何度も触れてきた。私には通用しない。
奴らは1度レンジでチンをする必要がある。
そんな「奴ら」に対し無邪気さというバーナーで顔を炙り、それに対抗するのである。
私自身、人間とはこうも同時に2つの温度を持つことができる生き物であるのかと関心したものだ。
私はこの苦しみについて、どうすれば開放されるのかを考え始める。
そこで、私は「幸せ」の存在に目を向けた。
どうすれば幸せになれるだろうか?
検証をもとに見ていきたい。
幸せになる可能性①:自殺
手っ取り早いのは自殺である。
これはありとあらゆる苦しみを終わらせてくれるコスパのいい商品である。
しかし、これは私の最後の楽しみとして取っておきたい。20代そこらでやるような代物ではない。
さらに言えば、この場合、幸せになりたいのは「今の私」であるため、「死体となった私」ではない。
これは却下だ。
幸せになる可能性②:人間社会からの逸脱
自分と向き合い精神性を鍛えるという点ではこれは優れていると言えるだろう。
しかし、これも私にはできかねる。
人を知りたい好奇心が満たせないからだ。
だが、先程より幸せに近づいた気がする。
幸せになる可能性③:考えない幸せ
これは自分の行動と責任をすべてなにかにすがらせるという方法である。
それは、神をはじめ、家族や親、会社に委ねる行為である。
しかし、これでは自分の人生を生きているとは言えない。
自分がなにがしたいかを求めて自分で生きることが生に対し、自分に対し向き合える行為であると言える。
その点で言えば「存在」についての悩みを見逃している。
だが、先程より具体的になってきた。
幸せになる可能性④:幸不幸を考えない幸せ
これは可能性③を深堀りしたものである。
実際のところ私はこの答えに行き着いた。
人間の幸不幸を生み出しているものは何かと根本を見直したところ「それを考えている状態」と結論づけたのだ。
ここでいう幸せとはすなわち比較をしている状態。いわば「比較の幸せ」である。
それは、
「あいつより強いから幸せ」「あの人より成功したから幸せ」
といったものだ。
とくに現代人の多くはこの「比較の幸せ」というものに苛まれていることだろう。
この幸せは一時的なもので際限がない。
塩水を飲んだ時のように、求めても求めても次が欲しくなり、乾きを癒やすことができないのである。
とは言え、そんな私も比較の幸せに頭を抱えた1人である。
私は「普通」というものに憧れを抱いていた。
みんなと楽しみ、ゲラゲラ肩を組み笑える自分に憧れていたのだ。
しかし、この憧れとも言える眼差しは歳を取るにつれ、次第に遠くなっていった。
皮肉なことに、 歳を重ねるごとに様々なしがらみと偏見が経験として積み連なる。
この人生の不可逆により、私には普通という崖を掴むことですら出来なくなったのである。
さて、そうなると私はどうにかこの比較の幸せから逸脱することを考えるわけだが。
私の結論は1つ。
「孤高」である。
私達はこの孤高を目指さなければならない。
孤高とは、孤でありながら、自分の志に身を置き、自分を高めることである。
この孤高こそが故郷であり人間のあるべき姿なのだ。
「いやいや、私寂しくて死んじゃうよ」
という方は安心してほしい。
人間は死ぬ時は独りだ。
どうしても寂しいなら君が終わるその瞬間を私が見届けよう。
手を握っといてやろう。
君の人生の輝きが見れるなら大歓迎だ。
しかし、私がそれまでに生きていればの話だが…
もう一度言おう。私たちが目指すべきは孤高である。
私は孤独を知っている。
もちろん、
それが必ずしも正しくないことも。
しかし、それでもと私はそれを提案する。
さぁこの狂人の言葉を読んでくれた兄弟よ。
誰でもない自分の価値観で人生を生きるのだ。
私は見てみたい。
そして聞かせてほしい。
君たちが乗り越える瞬間を。
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