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『沈黙』から読み解く、新卒採用における企業の評価と自己の経験について(11/50)

前回のnoteで、一面的な正解を目指すことの寂しさについて書きました。企業というものは少なからず経済システム内で動くよう設計されており、就職活動もその流れに紐づきます。前回はニーチェになぞらえて”正解と不正解の彼岸”を探してゆきたいと書きましたが、実際にどのようにして彼岸に向かってゆけばいいのかについて、今回は遠藤周作による『沈黙』を参考に、この問いを考察してゆこうと思います。

本書は江戸時代初期の日本におけるキリシタン弾圧をテーマとした小説で、1人の司祭がキリスト教に対する弾圧を目の当たりにしながら、神の信仰の意義について考え問い続ける様を描いた作品です。13か国語にまで翻訳された本作は、戦後キリスト教文学の金字塔として世界中で有名になりました。

主人公であるイエズス会神父のセバスチャン・ロドリゴは、日本におけるキリスト教信者が相次いで処刑される惨状を憂い、故郷ポルトガルから長崎の五島列島に侵入します。ロドリゴは運良く日本の隠れキリシタンの村に辿り着きますが、住民の裏切りによって密告され、奉行所に捉えられます。捉われの身となったロドリゴは様々な拷問を受けますが、苦難の間何度も行った祈りに対して、神は何も答えません。

主はなんのために、このみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいことはもっと別の恐ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きが満ち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられたあまりにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。

ここで述べているのは信仰に対する神の沈黙についてですが、就職活動において評価を下される過程は、この構図とどこか似ています。企業の求める評価軸にこれまでの人生を当て嵌めてゆくうちに、最短で内定を取得することには繋がりにくい経験が多くあるということを理解し、静かな絶望と諦念と、それでも就職活動を続けて行かなければならないという焦燥とが頭をもたげてくる時、これまでの経験は何のためだったのかという問いや、人生や世界の意義とは何なのかという問いに対して、誰も何も答えません。

それは就職活動に限らず人生を通して幾度となく向き合わざるをえない問いだと感じています。誰かが欲していることではなくて自分がただ信じるものについて話した時に、言葉を返してくれる人や場所は一体どれだけ存在するのか。返答があると信じる他はないと思う一方、世界から全く答えが返ってこないとすると、それはとても寂しいことでしょう。

ロドリゴは、最終的に信徒への拷問に耐え切れずキリスト教の棄教を宣言しますが、まさにその時初めて、神の声を聞きます。この体験によって棄教は赦された、とロドリゴは解釈します。信仰を捨てて生きるという行為は宗教上死よりも重い罪であり、事実故郷でも日本でも、ロドリゴは嘲りの対象となりました。しかしロドリゴはこの体験によって信仰を再解釈し、例え誰にも分かってもらえなくとも彼の中の神を信じ続けるのでした。

あなたに対する信仰は昔のものとは違いますが、やはり私はあなたを愛している

棄教した時に聞いた神の声が本物だったのか、はたまたロドリゴの極限の思考がもたらした幻聴だったのかは解釈が分かれますが、それまで思っていたことの解釈が変わる瞬間は、人生を通して多く訪れます。

就職活動単体の話をすると、哲学書を読むことや世界を旅することが短期的な価値の高さとは直接的に繋がりにくいかもしれない。しかし、当然ながら就職という行為において、人は資本主義的な観点以外においても人と関わり、様々な話をして思想や流行を生み出してゆきます。そして、そのような定性的な話や経験が、長い目で見て社会の在り方や流行を形作ってゆくものだと私は思います。

就職活動中に他者の評価軸に晒される時、なぜこんなに理不尽なのかと感じることもあるでしょう。叫びのようなその問いに対して、神は沈黙をもって答えます。

しかし、ある時点で役に立たないと思っていたことでも、この道を歩んで良かったと全てが氷解したような、奇跡のような瞬間は人生に存在します。これはこれで正解だったと、分かりやすいもの以外の側面を愛することのできる瞬間が、人生に訪れます。その瞬間が訪れるまで、今まで歩んできた経験や大事にしてきたものを信じ続けてほしいと、そう信じた人が報われる社会であってほしいと、切に願います。

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