「主体的」考・・・主体性原理主義も協調性原理主義も身勝手すぎ

「主体的」考。

最近は「主体的な学び」ということがよく言われている。しかし私には、この「主体的」という言葉がピンとこない。


どうもこの言葉は「子どもの主体性を重視するんだから、大人はそれを尊重するため、干渉はしてはならぬ、子どもの好きにさせてやらねばならぬ」という「主体性原理主義」と捉えている人が多いように感じる。それではうまくいかないだろう。ゲームや動画にいっちまう。「関係性」を無視してるから。


ケネス・ガーゲン氏が面白いことを言っている。人との関係性はダンスのようなものだ、と。ダンスの上手い人は、初心者ともうまく踊る。どうステップを踏めばよいのか皆目わからない人でも踏み出しやすいステップをうまく引き出し、「あれ?こんなに楽しく上手く踊れるものなの?」というところに導く。


人間は関係性の中で生きている。人の喜びも怒りも悲しみも楽しみも、たいがい人との関係性の中で生まれる。私達は、関係性の中で、相手とうまくダンスを踊るコツをつかんでいく必要がある。身勝手なダンスの踊り手は、自分に合わせてくれる一枚上手の踊り手としかうまく踊れないだろう。


身勝手な踊り手は、「自分に合わせろ」としか要求できない。しかし皆が相手に全部合わせられるほどの技量と度量を持ち合わせているわけではない。もし技能が優れていても、身勝手であれば踊ってくれる人はいなくなる。「主体性原理主義」はここに導く恐れがある。


これとは逆に「協調性原理主義」もある。私が子どもの頃がまさにそうで、協調性のない私は担任の先生から目の敵にされた。私はことごとく反発し、先生とうまくいかなかった。その様子に気がついた父が、初めて学校に面談に行った。


先生は面談の当初、私の問題行動をいろいろ列挙したらしい。父はそれに耳を傾けた後、次のように言ったという。「先生、それらの特徴は息子の長所です。息子の長所を潰さないでください」。先生はえ?と、キョトンとしたらしい。父は続けた。


「世の中には孤独な仕事があります。恐らく仕事の一割はそうでしょう。灯台守は一人でしなきゃいけないし、大きなダムやビルを夜中、一人で見回る仕事もあります。こうした仕事は孤独です。でも、こうした孤独な仕事をしてくれる人がいるから、世の中は保たれています。」


「もしみんな協調性のある、みんなと一緒にいたい人間ばかりになったら、これら重要な仕事を誰がやってくれるのでしょう。孤独に強いのは息子の長所です。どうか息子の長所を潰さないでください」と頭を下げたという。

先生は驚いた。短所とばかり思っていた特徴が、長所だなんて!


先生は、扱いに困っていた他の児童についても父に相談し始めた。すると、短所と思われた特徴がみんな長所にひっくり返るのを知って、先生びっくり。10分の面談のはずが、先生の相談で1時間にもなり、廊下には保護者の長蛇の列が。父は気になって仕方なかったという。


マラソン大会があって、その応援に立っていた母のもとに担任の先生が近づいて、「篠原くんのお父さんは、心を2つも3つも持っている方ですね!」と言っていたという。

面談のあと、先生の私への接し方がガラッと変わった。それまでは無理にでも協調させようとしていたのに、


私の様子を観察し、私がその時何を考え、感じているかを想像し、そんな私でも動き出す声かけはなんだろうか?と工夫するようになった。すると、クラスに全く馴染めなかったはずの私が、クラスのみんなと協調できるようになっていった。


やがて、私は引っ越すことになった。先生はとても残念がってくれた。「ようやく篠原くんのことが分かるようになってきたところなのに」と。

この先生は面談前、どうだったのだろう?そして父の面談以降、どう変化したのだろう?


面談前の先生は「協調性原理主義」だったと思う。先生の考える様式に協調しない子どもはダメな子とみなしていたように思う。我の強いダンサーが「俺のステップに合わせられないヤツはダメだ、ヘタだから合わせられないのだ」と決めつけ、見下すようなもの。


では面談後の先生はというと、相手の様子を観察し、自分も相手に合わせアプローチを工夫すれば、相手も能動的に協調する動きを取りやすいのでは?と仮説を立て、試してみるようになったのだと思う。プロのダンサーが、初心者の様子を観て、初めてでもできるステップに合わせるように。


初心者はそのとき、どう感じるのだろうか?ブロからうまく引き出されてる、とは思うだろう。その意味では受動的に見える。けれど、自らが踏んだステップは、自らが踏み出さなければ出なかったステップ。能動的に動かそうとして動かしたのは間違いない。自分が踏んだステップだ、という「能動感」が間違いなくある。


大切なのは「オレはこうしたい」と我を張り、相手がそれに合わせるしかないところに追い込む「主体性原理主義」でもない。「オレのやり方に協調しろ、しないヤツは無能だ」とレッテルを貼る「協調性原理主義」でもない。


ダンスは互いに歩み寄り、互いの能動性を大切にしながら、自分の能動性を相手の能動性と協調させ、それが紡ぎ出す流れを楽しむものだと思う。不思議なことに、「協調する能動性」がうまく機能すると、互いに技能が高められ、しかも楽しい。


また、関係性は必ず一緒でなければならないものでもない。テニスでは、コートの外に転がっていったボールを拾いに行く役割がある。孤独だし、地味だが、素早くボールを拾いに行き、ゲームを中断せずに済むように動く必要がある。孤独でも、これも「能動的な協調」の一つだろう。


もしテニスプレイヤーが「ボール拾いをするのはお前の仕事だろ」という当然視した態度を取ったり、「ボール拾いなんかよくやるなあ」と傲慢にも見下せば、ボール拾いをしてる人も嫌気が差し、ボールはコートの外に転がったまま、ゲームはうまく進まなくなるかもしれない。これはプレイヤーの「主体性原理主義」がもたらした結末。


プレイヤーもボール拾いに感謝し、その役割の重要性を認めれば、テニスというゲームがみんなの力で滞りなく動いていく。これはみんなが協調したから生まれた独特の空間。それでいて一人一人が能動性を失っていない。むしろみんな積極的に能動的に動く。しかも楽しい一体感。


後に曹洞宗の開祖となった道元は、中国に留学したとき、もう何十年も料理係をしているという僧侶に出会ったとき「なぜ料理係などというつまらない仕事に満足しているのか、大きな寺の住職になろうと努力しないのか」と問いかけたところ、その僧侶から「若いなあ」と笑われたという。


道元はこの体験がいたくショックで、ずっと考え続けることになった。帰国後、曹洞宗を開くことになったとき、掃除、洗濯、料理を修行の中心に据えることにした。修行という能動的な取り組みが、寺の維持という協調しないとできないことに結晶することの重要性を痛感したからかもしれない。


私は、主体性原理主義も協調性原理主義も、どちらも問題だと考えている。日本は片方に寄ると、極端に振れる傾向がある。主体性と言ったら主体性だけを重んじる原理主義に、協調性と言ったら協調性ばかり求める原理主義になってしまう。どちらも問題ありすぎ。


私は、「相手の能動性を大切にした関係性」こそが大切なのだと思う。相手をよく観察し、「こうしたら相手の能動性を損なわずに済むのでは」と接し方を工夫し、協調できる道を探る。これをともに歩み寄ることで見つけていく。

相手がダンスのようにベッタリした関係性が苦手なら、少し間を空けたり。


自分が相手に合わせようとしないで「上の決めた規準に合わせろ」という「協調性原理主義」(均平化原理主義)と、「オレはこうしたいんだ、それに干渉するものは許さない」という「主体性原理主義」は、実はよく似ている。一言で言えば、実はどちらも身勝手。相手に合わせようという気のない関係性を作ろうとしてる点で。


主体性も協調性も、変に強く求めるのはバランスが悪い。それよりは「相手の能動性を大切にした関係性」というほうが、今の私にはしっくりくる。今の「主体的な学び」が原理主義に陥らないことを祈る。もし今の原理主義的ニュアンスのままだと、失敗するだろう。

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