せっかくの優しさが誤解されてしまう、残念な事態を回避する技術 ユマニチュード
日本ユマニチュード学会終了。ものすごい刺激を受けた。今後、たくさんの言語化作業を続けることになると思う。一つ、気がついたことがあるので、その言語化を試みてみたい。
今日、繰り返し伝えられた言葉に「ユマニチュードは優しさを伝える技術」というものがある。しかしこの言葉を聞くと、
もともと介護・看護をやってきた人達は「これまでだって優しさを患者や高齢者のみなさんにお伝えしてきた。私たちのこれまでの取り組みを否定するというのか」という反発が起きてしまうことがあるらしい。
確かにこれまでの看護師も介護士も、みなさんものすごく優しい。だからこの反応も無理はない。
また、ユマニチュードが「優しさを伝える技術」と表現するのも、無理はない。ユマニチュードの研修を受けた看護師・介護士は、自分たちがこれまでやってきた方法では優しさを届けられていなかったことに驚かされることになるという。たとえば腕の握り方。
手を持ち上げるとき、私達はつい患者の腕を上からつかみ、持ち上げようとする。しかしこのつかみ方は、警察官が犯罪者を連行しようとしているかのよう。患者はどこに連れて行かれるか不安になり、恐怖を抱き、拒絶してしまう。腕の握り方が相手をモノ扱いしてるメッセージとなっている。
ユマニチュードでは、下から支えるように手のひらに乗せる形で触れる。これなら、患者は自分の意志で手を振り払う自由が担保されている。こうすると、患者は「自分の意志を尊重しようとしてくれている」と感じ、相手を信頼し、委ねてもよいという気持ちになる。
たとえばもう一つは、声かけ。普通、高齢者に声かけるのに、いちいち相手の正面から顔を覗き込むようなことはしない。しかし横から声をかけられるだけでいきなりケアに入られると、こちらの意志など無視して乱暴狼藉受けたような気分になる。それがどれだけ患者のためを思った行為であっても。
ユマニチュードでは、認知症の高齢者がどんな視野になっているかを踏まえる。高齢者は視野が大変狭くなっており、トイレットペーパーの芯を目に当ててるようなものだという。やってみるとわかるけど、視野が狭くて真横なんか見えやしない。見えない相手から陰部を触られたらそりゃパニックになって当然。
だから、患者の顔真正面に自分の顔を持っていくことが大切なのだという。しかしそれをするにしても、横から突然ヌッと現れると患者はビックリする。トイレットペーパーの芯を通してしか見えない視野の狭さなのだから、横から突然出られるとビックリしてパニックに陥る。だから。
相手の向いてる方向の遠い場所から、手を振りながら声をかけつつ近づくのが、ビックリさせないためには大切なのだという。
それだけではない。高齢者はしばしば、30センチ離れると表情が読めないほど視力が低下している。だから20センチの距離にまで顔を近づける必要があるという。
介護、看護の現場に立つ人達の優しさは疑いようがない。しかし高齢者の見える世界、感じる世界は若い健常者とは全く異なる状態のため、患者の状態に合わせて必要なアプローチをとる必要がある。そうした注意すべきポイントを明らかにし、技術化したのがユマニチュード。
だからこそ、ユマニチュードは「優しさを伝える技術」と言われるわけだけど、これを強調すると、従来の看護・介護技術に若干ケンカを売ってるように受けとめる人が出る恐れがある。これがもったいない。従来の技術に対して「上から腕をつかむ」感じになってしまうのかもしれない。
こうなってしまう原因は、「優しさ」という日本語があいまいなためではないか。日本では、健常者の間でも「優しさ無罪」「よかれと思って無罪」がある。世話する側が優しさのつもり、「よかれと思って」する行為は、たとえ相手が迷惑に思っても責められるべきではない、許されるべきである、とされる。
世話する側の気持ちに「優しさ」「よかれと思って」があるなら、相手を困らせることになっても、迷惑をかけることになっても全て免罪される、許されるべきである、という妙な日本の「伝統」(思い込み)がある。相手に伝わるかどうかは関係ない。自分が優しい気持ちで行った行為は全て免罪。
日本の「優しさ」という言葉には、そうしたイイカゲンなところがある。だから「優しさを伝える技術」という言葉は、実は日本では矛盾を抱えることになる。伝わらなくてもよいのが「優しさ」だという無言の前提が、どうも日本では根強い「思い込み」としてあるためだ。
では、ジネストさんが伝えようとしている「優しさ」とはなんだろうか、というところから考え直す必要がある。日本語の「優しさ」は、「優(すぐれる)」という字にも表れているかのように、「世話する側が可哀想な人の面倒をみてあげる」という優越感、上から目線の姿勢まで潜んでる。
私が思うに、ジネストさんの伝えようとしているやさしさとは、
①相手に「能動的に動く力」があることを信じること。
②ケアする側が適切に働きかける(近づく)ことで、相手から能動性が現れやすいように刺激を与えること。
③能動性が現れるまで「待つ」こと。
④能動性の出現に驚き、喜ぶこと。
ではないだろうか。
ジネストさんは、2年も口をきいたことのない寝たきりの患者に寄り添い、相手には「こころ」があることを信じ(①)、ユマニチュードの技法で②の働きかけをする(②)。そして常に、相手からリアクション(能動性)が現れるのを待つ(③)。すると。
いつも自分の都合なんか聞いてくれずに全ての世話をされ、常に受動的な立場に置かれ続けて、心が死んだかのようになっていた人達の心が動き出す。この人は、自分の中に能動性があると考えて接してくれている。自分の反応を待ってくれている。自分の意向を無視しないように心がけてくれている。
そうしたメッセージがユマニチュードの技法から伝わり、この人には何か伝えたい、という気持ちが湧くらしい。だからリアクション(能動的な働きかけ)をしたくなる。これが起きるのも、ジネストさんが患者の能動性を信じ(①)、働きかけ(②)、待つ(③)姿勢があるからだろう。
そして、患者の目に光が宿り、ジネストさんの目を見るようになり、何か口にしようとするたびにジネストさんは目を見開き、嬉しそうに反応する(④)。患者は、自分の働きかけ(能動性)にジネストさんが応じてくれたことに喜び、もっとこの人に伝えたい、能動的になることで驚かし、喜ばせたい、と、願うようになっているように思う。
ジネストさんの伝えたいやさしさとは、相手の能動的な力を信じ、それが出現しやすいように適切に働きかけ、能動性の出現を待ち、能動性の出現に驚き喜ぶことではないか。恐らくこれらは、日本語の「優しさ」では、容易に伝わらないニュアンスのような気がする。
このように言語化してみると、「優しさ」ではうまく表現できていなかった、従来の認知症患者への看護・介護の課題が浮かび上がってくるように思う。
①’患者に能動的に動く力があると想定しない。
②'患者にとってやらされ感、受動感の強いケアをすることがある。
③'患者の反応を待たない。
④'患者の能動的な働きかけがあってもスルーしがち。
従来のケアは、①'〜④'のアプローチがしばしば顔を覗かせていたのではないか。それが患者にとって「無視された」「こちらの意向を聞いてくれない」「何をしても言ってもムダ」という諦めとなり、「学習性無気力」に陥ってしまう原因なのでは。
ユマニチュードは素晴らしく高度に言語化された技術だと思う。これを直接学んだ人は、ユマニチュードが「やさしさを伝える技術」と言われるのは、その通りだと痛感することだろう。けれど、学ぶ前の人が「優しさを伝える技術」と聞いた場合、気持ちのどこかでムッとするのを否めない気がする。
いわゆるゼンメルワイス反応。手の消毒をしないことが患者を死に至らしめているのだとゼンメルワイスは攻撃し、それへの反感のためにゼンメルワイスは同時代の人達から無視され、消毒法が広まらない原因になった。いくら正しくても過去を責めているように見られると、ゼンメルワイス反応を呼び起こしてしまう。
他方、リスターはゼンメルワイスのように過去の技術の問題点を糾弾せず、淡々と消毒技術を磨き、科学的データを積み重ね、ついに誰もが消毒法の有効性を認めるところにまで達した。
ジネスト先生も本田先生も、ゼンメルワイス反応のことはよく承知し、過去を責めず、細心の注意を払っておられる。
ただ、門外漢の私が脇から見ていると、「優しさ」という日本語が持つ曖昧さ、問題点をそのままにして「やさしさを伝える技術」と表現したことが、思わぬ現場での反発を生んでいるのではないか?という気がした。もし私がユマニチュードを、誤解を与えないように表現するとすれば、
「相手の能動性を信じ、それが現れやすいよう適切に働きかけ、能動性が現れるまで待ち、現れた時に驚きの声を上げ、喜ぶ技術」となるように思う。
長いからつづめると、「相手の能動性を楽しむ技術」になるだろうか。
ユマニチュードは、認知症に限らず、あらゆる人間、あるいは人間でない生き物にさえ通じる素晴らしい技術だと思う。この技術がいろんな場面で普及することを強く願う。私の拙い言語化が、ユマニチュードの普及の一助になれば幸い。
本田先生、ジネスト先生、ありがとうございました!
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