寝に戻る場所でしかない「地域」
阪神淡路大震災の時、淡路島も震源の一つとして甚大な被害を受けたのだけれど、きわめて迅速に全住民の安否確認が完了した。どの家に何人の家族が住んでいるか、なんならどの部屋で寝ているかまでご近所の人が知っていて、救出活動も効果的に行えたのが大きかったという。
他方、大都市の神戸ではマンションも多く、「隣の人は何する人ぞ」状態。隣が何人家族なのか、そもそも誰なのか知っている人がいないという状態で、安否確認が非常に手間取った。潰れた部屋に人がいるに違いないと思ったら旅行中で不在だったり。安否確認だけで相当の時間がかかった。
YouMeさんが赤ちゃんをあやしているとき、「そんなに泣いていたら通報されて、離れ離れになってしまうよ」と言っていたので、おおげさな、と言ったら、「何を言っているの、育児支援室のお母さんたちはこの話題で持ちきりよ」と言って驚いた。で、話を聞いてみると。
赤ちゃんが長い時間鳴いていると虐待を疑われ、児童福祉相談所に通報されて、赤ちゃんと離れ離れに引き裂かれる可能性がある、ということで、お母さんたちは戦々恐々だという話だった。そして、その不安は無理からぬものだった。なぜなら「隣は何をする人ぞ」だったから。
隣人が誰で、どんな人かわからない生活環境が都会では一般的。そうなると、長く泣いている赤ちゃんの声を聞くと、自分の目で確かめもせずに「虐待では」と疑い、専門部局に通報しても不思議ではなかった。実際、通報を報道で推奨されてもいた。でもそのことで、母親たちは不安に陥っていた。
当時、保育園や幼稚園は「迷惑施設」と呼ばれる状態になっていた。東京などの大都市で、保育園不足が問題視され、新たに保育園を建設しようとすると「子どもの声は騒音、迷惑施設を作るな」と地域住民が反対する、という報道が毎日のように繰り返されていた。
また、赤ちゃんを抱えたお母さんが電車や新幹線に乗っていると、赤ちゃんだからどうしても泣いてしまうことがある。すると、あからさまに舌打ちする人、「親だったら子どもを泣き止ませろよ」と怒鳴る人などがいる、という報道も繰り返されていた。子育てに理解のない社会。
考えてみると、虐待を疑って施設に通報する人の「絵」を考えてみると、実に奇妙だ。隣の家の人は壁一枚隔てているだけで、距離にして数メートルも離れていない人が、電話して数キロ離れている施設に通報し、その公務員に何とかしてもらおうという図。すぐ近くの人間なのに遠い人間が対応する奇妙な絵。
そう。「地域」とか「地域住民」と呼ばれるが、都会では、たとえ家が隣り合っていても赤の他人。隣人は何キロか離れた場所の会社に通っている。自分も別の、数キロ離れた電車に通勤。家は寝に帰るだけの場所。そう、地域とは、利害関係のないバラバラの人間たちが、寝に帰る場所でしかない。
なぜ壁一枚隔てただけの、数メートルしか距離のない人間が手助けするのではなく、数キロ離れた場所の人間を呼び出して「なんとかしろ」というのだろうか?それは、隣人よりも公務員の方がまだしも「近い関係」だから。自分は働くことで税金を払っている。公務員は税金で食べている人。
ところが隣人は、別の会社に勤めている人で、全く関係性がない。まだしも「自分の払っている税金で食べている数キロ離れたところの公務員」の方が関係が近くて、壁一枚隔てただけの、数メートルしか離れていない隣人の方が関係が遠い。だから隣人に手を差し伸べるのではなく、役所に通報するのだろう。
今の日本社会は「縄のれん」のような構造だと言える。縄のれんの玉同士は隣り合っているようでも、つながりはない。縄のずっと上の方、国に税金を納めている者同士、という遠い関係しか隣人にはない。隣り合っていても一番遠いのが隣人。そんな縄のれん社会に、現代はなっている。
では昔は、なぜ地域のつながりが強かったのだろう?それは恐らく、経済的なつながりが地域に強かったからだろう。昔は自営業の小店舗がたくさんあり、地域の人たちを相手に商売していた。利害が地域の中にあった。他者のために貢献することは、回り回って自分に戻ってくる構造だった。
ところが、今の日本社会では自営業が急速にやせ細っている。1985年の850万人から2015年の510万人に減少。そして多くの若者は、「就職」する。サラリーマンになる。それも、地元の会社ではなく、電車で何駅も乗り継いだような離れた場所の会社に。
小売業も、昔は八百屋やパン屋、金物屋など、様々な小店舗があった。しかし今は「小売り」というクセにバカでかい大規模小売業が発達。巨大スーパーや巨大ホームセンターに。そしてそこで働く人はサラリーマンか、アルバイト。住む場所もバラバラ。
こうして「地域」は、利害関係のないバラバラの人間が、夜になると寝に戻る場所でしかなくなった。子どもが生まれると、学校や地域のお世話になることがあるから「仕方なく」地域と関わるが、これは「子どもが人質に取られているから」という感覚でイヤイヤ参加している人も少なくない様子。
今は夫婦共働きも多い。夫婦が同じ会社で勤めているとは限らず、バラバラの会社に勤めているケースも多い。もちろん、住んでいる地域と会社との間には何の利害関係もない場合がほとんど。そういう家族にとって、地域とは、寝るためにやむなく夜に戻る場所でしかなくなってしまう。
昔は、地域自体が経済単位だった。農村なら、住んでいる人のほとんどが農家で、農家でなくても鍛冶屋だったり、利害関係がしっかりしている人たちで構成されていた。「結」と呼ばれる共同作業も多く、利害なしに農村は成り立たなかった。
商業の街でも、八百屋の人は魚屋でしか魚が買えず、文房具屋でないと文房具は買えず、という感じで、「お互いさま」「おかげさま」の関係ができていた。昔は地域は経済でつながり、地域自体が経済単位であり、経済力を誇っていた。しかし、現代では様子が異なる。
現代の地域は、寝に戻るだけの場所であり、住民税を支払う場所でしかない。地域には、かつてあったような経済力はなく、経済的なつながりもない。利害が地域にない。このため、隣人とつながり合う必要もなく、ただ自分の家に戻って眠るだけの場所。それが現代の地域。
このため、人間関係が希薄になっている。私が塾を主宰していたのは30年前だが、当時、「ゆとり教育」が話題になっていた。私の見るところ、ゆとり世代はそれまでの世代と異なり、もっともゆとりを与えられず勉強ばかりさせられた世代だった。
「学校では円周率を3としか教えないらしい、それでは厳しい受験戦争を乗り越えられない」と塾産業から脅された親たちは、子どもたちを慌てて塾に通わせた。この結果、通塾率が一気に上がり、公園から子どもの姿が消えた。友達と会いたいから塾に通う、という状況が生まれた。
この結果、ゆとり世代は、それまでの世代と比べて遊びが極めて欠乏している世代となっている。そんな彼らも、もはや40代になり、親になっている人たちも少なくない。「どうやって遊べばよいのか」がわからなくなっている可能性がある。群れ遊びを経験せずに大人になったから。
横浜に住んでいる知人が強い懸念を示していた。今の横浜に住んでいる子どもたちは、恐ろしく学力がない、という。みんなまじめでよく勉強するけれど、遊びが欠如しているために、2倍になるという体感、3分の1に減るという体感がなく、理解ができなくなっているという。
また、少子化が加速していることもあり、今の子どもたちは群れ遊びをする経験が欠如しがち。親が「隣は何をする人ぞ」なために、子どもも横のつながりを作りにくくなっているのかもしれない。こうして、人間関係の希薄な生育環境を子どもたちに整えてしまっている。
昔は、近所の公園に行けばたくさんの子どもたちがいて、一緒に遊ぶことができた。しかし今の時代、小さな公園には子どもの姿はなく、子ども同士で遊ぶということも起きにくい。同伴している親とだけ遊んで、横のつながりは形成されにくい。人間関係を作る経験が乏しくなってきている。
そんな生育環境で育った子供が、いくら勉強できたからと言って、諸外国と丁々発止のやり取りをする外交ができるだろうか。人間と人間のぶつかり合いを経験していない人間が、果たして世界と伍していけるだろうか。心もとないような気がする。
総サラリーマン化ともいえる日本社会では、地域は利害関係のない人間が、睡眠をとるためだけに戻る場所でしかなくなっている。そしてそんな環境のために、子どもたちは人間にもまれ、人間の中で鍛えられていくという体験を積むことができなくなっている。
私は、地域に「利害」を取り戻すことが大切なのではないか、と思う。たとえば一つの思考実験でしかないが、「犯罪が起きたら、犯罪の起きた地域の人が牢屋を用意する」となったらどうなるだろう?今の時代は、犯罪が起きたら「刑務所にずっと放り込んでおけ」と無責任なこともいえる時代。
自分とは利害関係が薄いから、公務員に平気で「お前らそれが仕事だろ」といって、犯罪者の扱いを全部押し付けようと平気でしてしまう。でも自分の地域に犯罪が起きたら、地域住民で犯罪者の面倒を見なければならない、となったらどうなるだろう?
牢屋の建設費はどうやってねん出するのか、日々の食費はどうやって負担するのか、などなど、地域の人たちが喧々諤々の議論をせねばならなくなるだろう。犯罪が地元に起きてはかなわないと、事前に犯罪を防ぐ努力を始めるようになるかもしれない。
このように、地域の人間で話し合わざるを得なくなるような「利害」が発生すると、地域は良くも悪くも活性化し、人間関係を築かざるを得なくなるだろう。現代の地域が崩壊し、人間関係が希薄になっている原因の一つは、地域に利害が失われたことがあるだろう。
二つの農村を比較した面白い研究がある。一つの農村は最新の水路を整備し、自動で田畑を潤してくれる便利なものだった。もう一つの水路は昔ながらのもので、地元住民がケンカしながら草刈りしたりメンテナンスしたりなど、手間暇かけて水路を維持しなければならないものだった。で、10年後。
なんと、最新型の水路は使い物にならなくなり、農業用水の確保にも苦労するようになってしまった。他方、古くからの水路を利用していた農村では、10年前と変わらず水路が利用できた。なぜこんな明暗が分かれたのか?最新型を導入してよくなるはずだったのに?
それは、「利害」が失われたからだった。最新の水路設備は、水争いでケンカせずに済むようになってしまったために、みんな水路に関心を持たなくなってしまい、ついにはメンテナンスもろくにやる人がいなくなって、復旧させようがないほど壊れてしまったのだという。
しかし古くからの水路は、草刈りしたりどぶさらいをしたり、手間暇コストをかけなければならないからこそみんなの関心をずっと引きつけ、結果的に水路が維持てきたのだという。利害が失われると関心を失い、結果、見事な仕組みも維持されなくなってしまうという皮肉なケース。
私たちはこれまで、他人との関係性を煩わしく思い、できるだけ関係を作らずに済むような社会を目指してきた。しかしそのために、子どもたちが未来を生き、切り開くための力さえ奪っているのかもしれない。また、母親たちが安心して子育てするための環境も損なっているのかもしれない。
私たち夫婦は農村に引っ越してきたのだが、今も思い出に残る出来事があった。雨が降ってきて、幼稚園にいる息子を傘持って迎えに行かなければならない。しかし私は出張で不在、そしてYouMeさんは赤ちゃんを抱えていた。赤ちゃん連れでは濡らしてしまい、風邪をひかせてしまうかも。
するとお向かいのおばあさんが「息子さん幼稚園に迎えに行くんやろ。赤ちゃん預かってあげるから、行っといで」と言いに来てくださった。YouMeさんはそのおかげで赤ちゃんを雨にぬらすこともなく、息子を幼稚園にまで傘持って迎えに行くことができた。
これは本当に文字通り有り難く、奇跡のことのように思われた。うちに幼稚園児と赤ちゃんがいて、私が不在で、YouMeさんは赤ちゃんを一人家に置いておくこともできず、かといって雨の中赤ちゃんを連れて行くこともできず、困っているだろう、ということを、ご近所の方が察してくださったということ。
そして察するだけでなく、手を差し伸べようと思って下さり、実際にそうしてくださったこと。私たち家族のことを思いやってくださっていなければ決して起きない出来事だった。私たちは「なんてよい地域に住むことができたのだろう」と感謝一杯になった。
利害関係ができることは煩わしい。その通り。でも、利害関係があるから関心が湧き、人を思いやること、人に手を差し伸べることもできるようになる。私たちは、あまりにも失ってはならないものを失い過ぎたのではないか。そのために、次世代を育てるのに必要な環境まで損なっていないか。
人間関係は煩わしくもある。でも、人間関係があるから人間は生きていける。どうやったら昔の煩わしい関係性とは異なり、楽しく、程よい関係性を構築できるのか。昔に戻るのでもなく、否定するのでもなく、新たな関係性を構築する。その試みを、そろそろ始めてもよいのではないか。
すっかり失われてしまった地域の「利害」を、何らかの形で取り戻し、地域に住む人たちの人間関係を再構築できる仕掛けを作れないだろうか。私たちは、そうしたことにも挑戦していく必要があるように思う。